柳家三亀松の艶っぽく粋な都々逸(どどいつ)『恋の極楽 情けの地獄』(1977)
惚れたはれたに無縁な野暮な音楽ブロガーが鑑賞する柳家三亀松(やなぎや みきまつ、1901 - 1968)の色っぽい都々逸(どどいつ)『恋の極楽 情けの地獄』(1977)が今日取り上げるレコード。この都々逸は≪主として男女の恋愛を題材として扱ったため情歌とも呼ばれる。≫(WIKIPEDIA)そうだ。ま、本領がそこにあるのは「酒と女」の絡みあう≪座敷などで演じる出し物≫であることからしてももっともなことと言える。こうした男女の仲、「遊び」と「粋(いき)」などとおよそ無縁な(酒だけは別)人生だったけれど、なぜだか、自分に無い分こうしたものに憧れ興味をもつと言ったところだろうか。もともと音楽はなんでも一応耳にするということでの三亀松の都々逸のレコードだった。やはりこのジャンルとなると、寄席ではともかく放送でそうそう聴けるものではないので、一枚は手元にということだった。このレコードの三亀松の都々逸は≪寄席芸としての都々逸≫のような下ネタ、きわどさよりも≪文芸形式としての都々≫(WIKIPEDIA)の余情と風情、風流を感じさせるものが多く入っている。たとえば次のような都々逸だ。
泣かせるばかりの空さえ晴れて 今宵は逢えそなまるい月
見送る松原遠のく姿 背延びする目にかかる霧
泣いて別れたまる一年の 秋がまた来て泣かす虫
土手に並んで行く方二つ 薄(すすき)が呼んでる月灯り
とめる実意をふりきる不実 傘も持たずに濡れて行く
草と寝て露に濡れてる 果報を持って何が不足で虫は鳴く
すだく虫の音 薄(すすき)の影に月をあびてる肩二つ
おぼろ月夜に寄添う二人 かすむ篝(かがり)に恋がうく
うちとけた心も一緒に 空まで晴れて今朝の青葉の冴えた色
月の薄(すすき)の穂にからませて 露に濡れてる立話
世間へたてつく小さな意地が ほろりとけそな秋の夜
どうでしょうか。艶っぽく粋でいいものです。これらが三筋の糸の調子に乗って唄われるのだからたまらない。
さて以下は、都々逸のネットページより趣くままにこれはとピックアップした唄の数々。さてどうでしょうか。こうした都々逸のひとつでもヒネリだしたいものだが・・・野暮には羨ましいセンスです。
・ あの人のどこがいいかと尋ねる人に どこが悪いと問い返す
・ 雨の降るほど噂はあれど ただの一度も濡れはせぬ
・ 嫌なお方の親切よりも 好いたお方の無理が良い
・ 色はよけれど深山の紅葉 あきという字が気にかかる
・ 井戸の蛙が空うち眺め 四角なものだと議論する
・ 今さら苦労で痩せたと言えぬ 命までもと言った口
・ うちの亭主とこたつの柱 なくてならぬがあって邪魔
・ 浮気うぐいす梅をばじらし わざととなりの桃に鳴く
・ 上を思えば限りがないと 下を見て咲く百合の花
・ 浮き名高砂むかしとなりて 今じゃ互いに共白髪
・お前死んでも寺へはやらぬ 焼いて粉にして酒で飲む
・遅い帰りをかれこれ言わぬ 女房の笑顔の気味悪さ
・ おろすわさびと恋路の意見 きけばきくほど涙出る
・ 面白いときゃお前とふたり 苦労するときゃわしゃひとり
・ おまはんの心ひとつでこの剃刀が 喉へ行くやら眉へやら
・ 岡惚れしたのは私が先よ 手出ししたのは主が先
・ 重くなるとも持つ手は二人 傘に降れ降れ夜の雪
・ 切れてくれなら切れてもやろう 逢わぬ昔にして返せ
・ 金の屏風に墨絵の牡丹 中に二人の狂い獅子
・ 義理や人情が守れるならば 恋は思案の外じゃない
・ 口でけなして心で褒めて 人目しのんで見る写真
・ くじも当たらす出世もなくて 今日を生きてる運のよさ
・ けんかしたときこの子をごらん 仲のよいとき出来た子だ
・ こうしてこうすりゃこうなるものと 知りつつこうしてこうなった
・ この雪によく来たものと互いに積もる 思いの深さを差してみる
・ 拒む気はない一言馬鹿と 肩へ廻した手を叱る
・ 察しておくれよ花ならつぼみ 咲かぬところに味がある
・ 寒さしのげぬあばら屋なれど 酔うて眠れば玉の床
・ 白だ黒だとけんかはおよし 白という字も墨で書く
・ すねてかたよる布団のはずれ 惚れた方から機嫌とる
・ 高砂祝って誓った初夜が 婆と爺とになる門出
・ たんと売れても売れない日でも 同じ機嫌の風車
・ ちらりちらりと降る雪さえも 積もり積もりて深くなる
・ 積もる思いにいつしか門の 雪が隠した下駄の跡
・ どうせ互いの身は錆び刀 切るに切られぬくされ縁
・ ながい話をつづめていへば 光源氏が生きて死ぬ
・ 庭の松虫音(ね)をとめてさえ もしや来たかと胸さわぎ
・ 一人笑うて暮らそうよりも 二人涙で暮らしたい
・ ひとりで差したるから傘なれば 片袖濡れよう筈がない
・ 惚れた数からふられた数を 引けば女房が残るだけ
・ ほれた証拠はお前の癖が いつか私のくせになる
・ 枕出せとはつれない言葉 そばにある膝知りながら
・ ままよままよと半年暮らす あとの半年寝て暮らす
・ 丸い玉子も切りよで四角 ものも言いようで角がたつ
・ 昔馴染みとつまずく石は 憎いながらもあとを見る
・ わけりゃ二つの朝顔なれど 一つにからんで花が咲く
・ 九尺二間に過ぎたるものは 紅のついたる火吹き竹 (九尺二間=粗末な狭い住居)
・ このまま死んでもいい極楽の 夢を埋める雨の音
・ 末はたもとを絞ると知らで 濡れてみたさの 春の雨
・ 土手の芝 人に踏まれて一度は枯れる 露の情けで よみがえる
・ 何をくよくよ川端柳 水の流れを見て暮らす
・ 長い着物を短く着ても 心で錦の綾を織る
・ ぬしによう似たやや子を生んで 川という字に寝てみたい
・ 野辺の若草 摘み捨てられて 土に思いの根を残す
・ 薔薇も牡丹も枯れれば一つ 花でありゃこそ 分け隔て
・ 雨の降るほど噂はあれど ただの一度も濡れはせぬ
・ 嫌なお方の親切よりも 好いたお方の無理が良い
・ 色はよけれど深山の紅葉 あきという字が気にかかる
・ 井戸の蛙が空うち眺め 四角なものだと議論する
・ 今さら苦労で痩せたと言えぬ 命までもと言った口
・ うちの亭主とこたつの柱 なくてならぬがあって邪魔
・ 浮気うぐいす梅をばじらし わざととなりの桃に鳴く
・ 上を思えば限りがないと 下を見て咲く百合の花
・ 浮き名高砂むかしとなりて 今じゃ互いに共白髪
・お前死んでも寺へはやらぬ 焼いて粉にして酒で飲む
・遅い帰りをかれこれ言わぬ 女房の笑顔の気味悪さ
・ おろすわさびと恋路の意見 きけばきくほど涙出る
・ 面白いときゃお前とふたり 苦労するときゃわしゃひとり
・ おまはんの心ひとつでこの剃刀が 喉へ行くやら眉へやら
・ 岡惚れしたのは私が先よ 手出ししたのは主が先
・ 重くなるとも持つ手は二人 傘に降れ降れ夜の雪
・ 切れてくれなら切れてもやろう 逢わぬ昔にして返せ
・ 金の屏風に墨絵の牡丹 中に二人の狂い獅子
・ 義理や人情が守れるならば 恋は思案の外じゃない
・ 口でけなして心で褒めて 人目しのんで見る写真
・ くじも当たらす出世もなくて 今日を生きてる運のよさ
・ けんかしたときこの子をごらん 仲のよいとき出来た子だ
・ こうしてこうすりゃこうなるものと 知りつつこうしてこうなった
・ この雪によく来たものと互いに積もる 思いの深さを差してみる
・ 拒む気はない一言馬鹿と 肩へ廻した手を叱る
・ 察しておくれよ花ならつぼみ 咲かぬところに味がある
・ 寒さしのげぬあばら屋なれど 酔うて眠れば玉の床
・ 白だ黒だとけんかはおよし 白という字も墨で書く
・ すねてかたよる布団のはずれ 惚れた方から機嫌とる
・ 高砂祝って誓った初夜が 婆と爺とになる門出
・ たんと売れても売れない日でも 同じ機嫌の風車
・ ちらりちらりと降る雪さえも 積もり積もりて深くなる
・ 積もる思いにいつしか門の 雪が隠した下駄の跡
・ どうせ互いの身は錆び刀 切るに切られぬくされ縁
・ ながい話をつづめていへば 光源氏が生きて死ぬ
・ 庭の松虫音(ね)をとめてさえ もしや来たかと胸さわぎ
・ 一人笑うて暮らそうよりも 二人涙で暮らしたい
・ ひとりで差したるから傘なれば 片袖濡れよう筈がない
・ 惚れた数からふられた数を 引けば女房が残るだけ
・ ほれた証拠はお前の癖が いつか私のくせになる
・ 枕出せとはつれない言葉 そばにある膝知りながら
・ ままよままよと半年暮らす あとの半年寝て暮らす
・ 丸い玉子も切りよで四角 ものも言いようで角がたつ
・ 昔馴染みとつまずく石は 憎いながらもあとを見る
・ わけりゃ二つの朝顔なれど 一つにからんで花が咲く
・ 九尺二間に過ぎたるものは 紅のついたる火吹き竹 (九尺二間=粗末な狭い住居)
・ このまま死んでもいい極楽の 夢を埋める雨の音
・ 末はたもとを絞ると知らで 濡れてみたさの 春の雨
・ 土手の芝 人に踏まれて一度は枯れる 露の情けで よみがえる
・ 何をくよくよ川端柳 水の流れを見て暮らす
・ 長い着物を短く着ても 心で錦の綾を織る
・ ぬしによう似たやや子を生んで 川という字に寝てみたい
・ 野辺の若草 摘み捨てられて 土に思いの根を残す
・ 薔薇も牡丹も枯れれば一つ 花でありゃこそ 分け隔て
関西にお住まいの民放ラジオリスナーの方にはおなじみのアナウンサー?鈴木美智子さんの都々逸は秀逸。と言うことで、興味のある方は以下をクリックしてみてください。動画で愉しめます。是非。
鈴木美智子の都々逸オンライン
鈴木美智子の都々逸オンライン
柳家三亀松「都々逸」試聴できます
≪もとより、「私は野暮です」というときには、多くの場合に野暮であることに対する自負が裏面に言表されれている。異性的特殊性の公共圏内の洗練を経ていないことに関する誇りが主張されている。そこには自負に価する何らかのものが存している。「いき」を好むか、野暮を択ぶかは趣味の相違である。絶対的な価値判断は客観的には与えられていない。しかしながら、文化的存在規定を内容とする一対の意味が、一は肯定的に言表され、他は否定的の言葉を冠している場合には、その成立上における原本性および非原本性に関して断定を下すことができるとともに、その意味内容の成立した公共圏内における相対的な価値判断を推知することができる。合理、不合理という語は、理性を標準とする公共圏内でできた語である。信仰、無信仰は、宗教的公共圏内を成立規定にもっている。そうして、これらの語はその基礎づけられている公共圏内にあっては明らかに価値判断を担っている。さて、意気といい粋といい、いずれも肯定的に言い表されている。それに反して野暮は同義語として、否定的に言表された不意気と不粋とを有する。我々はこれによって「いき」が原本的で、ついで野暮がその反対意味として発生したことを知り得るとともに、異性的特殊性の公共圏内にあっては「いき」は有価値的として、野暮は反価値的として判断されることを想像することができる。≫(九鬼周造『「いき」の構造』)