yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

高橋悠治のJ.S.バッハ『インヴェンションとシンフォニア』(1977)。耳タコのグレン・グールド同様我がバッハの範疇のようだ。

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Bach: Invention No. 2 in C minor

             

イメージ 2とにもかくにも、経済的な理由からが先ずいっとうの理由だけれど、同一曲のさまざまな演奏を音盤手元にして聴き比べるといった趣味はない。いや趣味にしようがない。私には一枚で十分だ。最初の出会いが決定的だ。それでよければ、その演奏がベストと言うことだ。音楽など所詮好き嫌いでしかない。(とはいえ、その好き嫌いの淵源、根っこにあるものは重要なことなのだけれど)つい先日、いつものわが町の図書館で借りた宇野功芳なる、名のみ知るだけであった評論家の『モーツァルト 奇跡の音楽を聴く』(ブックマン社/2006)を読んでというより、途中で放り投げてしまったけれど、≪独自の評論観を特異な筆致で断定的に書き上げる批評・・・全ての評論家と同様に、(しばしば大きな)嗜好の偏り≫(WIKIPEDIA)にはあきれてしまった。まさに「音楽など所詮好き嫌いでしかない。」の好例だ。とはいうものの、あろうことか音楽のプロにしてこれだ。それはさておき、それに、聴き比べて云々するような鑑賞力も能力もない。どだい音楽的な基礎的素養がないのだから、こればかりはどうしょうもない。たんなる音楽好きのブログと割り切っているつもり。口に入るのを、へつってでも音盤や本を買うといった程度の一好事家にすぎない。ようするに飯より好きという数寄者の類なのだろう。と言っても数寄が高じて身を持ち崩すほどの度量もない。また、なにごとかをなすには<狂>がいるけれど、一途、徹しきれない、中途半端なしがない常識人である。ということで、今日取り上げる高橋悠治のJ.S.バッハ『インヴェンションとシンフォニア』(1977)(ちなみに、バッハは《インベンションシンフォニア》を、息子ヴィルヘルム・フリーデマンの音楽学習のために作曲した。この作品についてバッハは、鍵盤楽器の初学者や愛好家が、多声をきれいに弾き分けられ、旋律を歌わせることができるようになることと、作曲の前段階として、優れた曲想とその展開の仕方を覚えられるようになることを目指して、これらの作品を作曲したと述べている。――WIKIPEDIA
は聴き比べと言った意味で取り上げた訳ではない。耳タコの、あのグレン・グールドの音が頭を経巡っているせいで、聴き比べのようになってしまうだけなのだ。最初の、インヴェンション第1番の聴きはじめ冒頭は、耳タコのグールドのものと「えらく違うものなんだな・・・」といったその印象も、聴き進むうちに、これはこれで良いのだといった印象に落ち着く。それゆえか途中で針を上げてしまうといったような違和感は起こらない。私にすればロマン派寄りの、なんだか落ち着かないバッハでないということなのだろう。こうした違いがどうして生まれるのか演奏技術的な事どもは私には分からないが、確かにそのような演奏があるのだ。そんななか、耳タコのマニエラの極致をいくようなアヴァンギャルドな、<主観>を超えた超越美のグレン・グールドのバッハ【≪グールドの音楽のもっとも大きな魅力は、瞬間的な想像力のきらめきであり、即興的な変奏と装飾の技術にあるのではないだろうか。・・・ひと言でいってマニエリスム、つまりは主観主義的な幻想の音の世界を≪「秘法(マニエラ)」】でもって作り上げ、伝統に挑戦した≪20世紀の生んだ特異な前衛演奏家】】(評論家・船山隆)】がいいのか悪いのか分からないけれど、どうしょうもなく居心地良くデンとわが感性に居座っているのだ。これが、我がバッハというわけなのだ。この我がバッハ、グールドのバッハと同じく違和感なく聴くことができる高橋悠治のこの『インヴェンションとシンフォニア』も、したがって、間違うかたなくバッハだといい募って今日の稿閉じよう。


高橋悠治のバッハ、ブログ投稿記事――







わが勉強のための備忘録として――