yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

近藤譲『忍冬Hunisuccle』(1994)。しじまに撃ちこまれる楽音の弱音から強音へのクレッシェンド。静謐のうちに佇む抒情と簡潔、その余韻。「線の音楽」の豊穣を聴く。

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Jo Kondo ~ High Window

              

      ≪私たちは、無に縁どられた線によって形つくられる透明な音の層を聴く≫
               (武満徹近藤譲の『線の音楽』へのことば)

イメージ 2そうとう前のことだけれど、NHK・FMの「現代音楽」の番組を担当していた上浪渡時代にエアーチェックしていたカセットテープが埃まみれで出てきた。根がズボラなせいもあるけれど、なにが収録されているのかコメントの記入もなしに乱雑に仕舞い込まれていたものだ。それを自動車のカセットレコーダーで聴いて、耳に新鮮な響きで飛び込んできたのが今日紹介する現代音楽の特異な作曲家、近藤 譲(こんどう じょう、1947 - )の作品で、それは「時の形」と言うタイトルの曲であった。このCD『忍冬Hunisuccle』(1994)に収録されている「スレッドベア・アンリミテッドThreadbare Unlimited,For 8 Strings」(1979)の翌年80年に作曲されたとのこと。それを聴いた時、「ああ、いい線いっている。ここまで音が具体化したか、いいな」と口をついて出てきたものだった。ハッキリ言って「(―1本の旋律的線を基礎にして、そこから曲全体の構造を導き出す)」(「声を発し語ることが人の存在の証であるかのように、鳴り響く音を自己の代理と見做し、音楽を普遍化された人の想像的な像とすることを止める。人が音から距離をとることを学べば、音楽は最早畏怖からも、情感からも湧き上がることはない。音楽は表現を棄てて、礼に等しい存在を保つことになるだろう。・・・・この拒絶の音楽は、・・・知にとってのひとつの訓練に他ならない。」「音楽を人間中心主義者の手から切り離す為のものなのだ」)その方法の具体化と言えよう。実ったということだ。「曲を構成している個々の音のそれぞれは、それ自体の生命と完結性をもつ存在である。それが私の信念であり、この信念に導かれて、私が試みたのは、個々の音の存在が聴覚的に認知し得るような状態を保ちつつ、それらの音の間の相互関係性の網目を作る、ということであった。」(近藤譲)

≪意味剥落し、飄々として静やかにさやさやと好きなように音の奏でられるさまは、異質なことこの上なく、それゆえに新鮮である。ケージ的世界の近親性を感じさせる純な響きがある。意味の枠組みから零れ落ち、あてどなく浮遊する音たちの振る舞いの奇妙な美しさ。素朴純朴というよりすっとぼけた音の有りようがことのほか調子はずれで肩すかしで魅力的である。≫とは投稿済みの拙ブログでの印象記からの引用だ。

フェルドマン的静謐の世界。しじまに撃ちこまれる楽音の弱音から強音へとクレッシェンドしての広がる斬新な空間と時間の開け。それは≪音色の万華鏡≫(近藤譲)との思いがやってくることだろう。
ポツポツと、吶々と奏でられるシンプル極まりない音たちの喚起力、生きいきしたさまは新鮮ですばらしい。惰性の意味世界、その関係性を断ち切り、ゴテゴテと着飾らない音楽。フェルドマンを思わせケージを思わせるその音楽の世界はシンプルゆえの美しさに満ちている。これがこのアルバムでの最高の魅力だ。静寂の闇夜から浮かび上がってくる音たちの新しき姿、存在の生成、それらとのがすがしい交感に安らぎをさえ覚えることだろう。
静謐のうちに佇む抒情と簡潔は俳句と短歌を謳いあげる趣がしないでもない。静寂、余韻を生み出す音たち。
斬新な世界を堪能できる好アルバムと言っておこう。
ところで、尾高賞受賞曲の「林にて」(わたしは未聴だけれど)を≪「ただひたすら“つまらない”]≫と言う評がネットにあった。それは、興味をお持ちの鑑賞者がこのCDを聴いての判断に委ねよう。

さて最後に、今のいままで、我が中央図書館の所蔵CDが予約取り寄せ視聴出来るとは知らなかった。近藤譲が借りて聴けるとは!。納税者とはいえありがたいことである。

収録曲
1. 忍冬(14楽器のための) (1984)
2. セレナータ・セッカ・コン・オブリガート(フルートと13楽器のための) (1991)
3. 地峡(7楽器のための) (1985)
4. 二折(5楽器のための) (1983)
5. 左岸(13楽器のための) (1981)
6. スレッドベア・アンリミテッド(8弦楽器のための) (1979)



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Jo Kondo- Isthmus