yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

新実徳英『作品集』。繊細にしてドラマティック。土俗的、神秘的、宇宙的、スケールの大きさを深い余韻とともに聴く。

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イメージ 2さてつい先日ブログ投稿の好アルバム「風神・雷神」(2004)の感動を与えてくれた作曲家新実徳英(にいみ とくひで、1947 - )の私にとっての2枚目のCDの鑑賞。『新実徳英・作品集』。今回も昨年末《カメラータ・コンテンポラリー・アーカイヴズ》より廉価盤で出された全10タイトルのものからの選択ピックアップ。若い時と違って、高価なものを何の苦も無く手にする経済的余裕と勢いがもはやこちらにはないということで、廉価ということが作品云々に先行する選択の絶対条件ですらある。

収録曲目
交響曲 第2番~オーケストラと混声合唱のための(1986)
 [1] I. 子どもの王国/[2] II. 宇宙の祭礼
[3] アルジラ─夢の時間~二十絃箏とチェロのための(1995)

上記の2作品であるけれど、とりあえず私の好みからいえば「アルジラ─夢の時間~二十絃箏とチェロのための」(1995)の方であった。こうした邦楽器を使っての作品は、武満徹の邦楽器(響き)の取り込みの(黛も抜きんでいたけれど)従前の民族派的傾向と違った斬新、響きそのものへの対峙の独特開示を礎に開花して見事な印象がして、好ましく大いに堪能した。以前、この作曲家とまったく同世代の佐藤聡明のCDを取り上げて≪純度高く精神性あふれる祈りの音楽。佐藤聡明『夜へ……』(1992)≫を投稿したけれども、とりわけ邦楽器を使っての作品≪佐藤聡明の静謐に浮かび上がる真正。尺八と琴の邦楽作品『日……月』(1993)≫と相同の深い余情を覚えた。ともども素晴らしい成果と感じ入った。これからますます邦楽器を使った、新たなナショナリティを(突き抜け)感じさせる作品が陸続と打ち出されてくる予感すら覚えた。武満を端緒とする邦楽器の(響きの)成熟を思う。邦楽の新しい伝統が作られ始めているといっていいのかもしれない。作品の醸す印象は「風神・雷神」の稿でタイトルとした≪己を空なしう天籟、地籟を聴く。その余韻の独特はすばらしく深い。繊細にしてドラマティック。仏性一陣の風吹き抜け、その霊性的風韻のすばらしさに感じ入る。≫のことばに付け加えるものはない。つまりは、余韻は深い。さてもう一曲の「交響曲 第2番~オーケストラと混声合唱のための」(1986)は、「風神・雷神」アルバムに収録されていた出色の作品「ヴァイオリン協奏曲-カントゥス ヴィターリスCantus Vitalis-」(2003)や、その前哨作ともいえる「ソプラノとオーケストラのための「アニマ ソニート Anima Sonito」」(2002)などの≪ひじょうに霊的でドラマティックな楽想を旨とする音楽をその特徴とする≫作品群より年代がすこしさかのぼることになるけれど、それゆえか、この作曲家が爾来長年にわたって探求していると聞く<アンラサージュ>(フランス語で、「纏わりつく」という意味。)の手法の形成成熟過程の途上作品と位置づけられるのだろうか。すこし趣が違って聴こえる。(【繊細・優美、時に官能的な「線(旋律線)の纏りつき」を中心とした世界と、システマティックかつ遠心的エネルギーの噴出へと向かう「リズムの纏りつき」の世界、そしてその両者の統合へと創作の歩みを進めている。】とはこの作曲家の一般的な世評のようだ。)≪90年代の管弦楽作品を知るものにはこの天国的な明快さに違和感を覚えるかもしれないが、・・・合唱の場で培った明朗快活な楽案と、多種の旋法に由来するクリアな極彩色の響きが混在しているのである。≫(解説・川島素晴)とあったが、確かにそうした印象のする作品だ。とはいえ、ベースの感性には土俗的、神秘的、スケールの大きさを感じさせる。

≪宇宙、巨大という言葉が無意味なほどに巨大な王国。無数の銀河、無数の小宇宙を内に含む。この巨大な王国は冷厳な秩序のもとに運動し分裂し融合し、そして調和を保つ。我々はこの王国のこうした無限サイクルの一点に存在する<瞬間>。
<無限>の王を称える祭礼に<瞬間>はささやかなる讃歌を捧げ、無限の中に解き放たれ一体となることを願う。≫(新実徳英交響曲 第2番作曲ノートより)