yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

≪私のは「悲しみ呆け」だと思ふのでございます。≫(中原中也)

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    悲しんでいる人たちはさいわいである。
    彼らは慰められるであろう
             (マタイによる福音書5・4

    涙をもって種をまくものは、
    喜びの声をもって刈り取る。
    種を携え、涙を流して、
    出て行く者は、
    束を携え、喜びの声をあげて
    帰ってくるであろう。
            (詩篇、第126篇


≪私のは「悲しみ呆け」だと思ふのでございます。≫(中原中也「療養日誌」より)

いやいや、人は悲しいのです。哀しい存在なのです。でなければ、誰が生の始原を問い、死の終焉のはかなさに思いを馳せるのだろう。だからこそ、いまここに在るという現存の確かさをあらんかぎり希むのだろう。中間者たるのゆえんといえよう。
どこからきてどこへゆくのか・・・?

    ゆふがた、空の下で、身一點に感じられれば、萬事に於いて文句はないのだ。
                     (中原中也・「羊の歌・いのちの声」より)
                                   
イメージ 2≪この詩集は次の最後の一行でおわる。「ゆふがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於いて文句はないのだ」。
 この一行が紹介したくて、『山羊の歌』を選んだといっていい。詩集なら『在りし日の歌』のほうをよく読んだのに、あえて一冊となってこれにしたのは、この最後の一行のせいである。
 まさに、ぼくも夕刻に一切の存在の印画紙が何かに感光してくれればそれでいいと確信するものがある。ところが、なかなかそうはいかないのである。中原中也にして、やはりそうだった。≫とは松岡正剛の謂いである。たしかに詩人はその身一点で感受する。

<角の乾物屋の ―わがもとの家、まことにかくありき―> 角の乾物屋の /塩俵、/日ざしがかっきり /もう斜(ななめ)。/二軒目の空家の /空俵、/捨て犬ころころ/もぐれてる。 /三軒目の酒屋の /炭俵、 /山から來た馬 /いま飼葉。 /四軒目の本屋の /看板の、 /かげから私は /ながめてた。
             (金子みすゞ

斯く≪身一點≫、その名状しがたい一点とは<現>としての<存在の開示>であり、ことばの、詩の生成であり、ある意味、神の示現でもあるだろう。それを<魂>とよんで差しさわりがあるだろうか。
                                    (写真:中原中也小学校入学時)
≪めしをくわねば生きてゆかれぬ現身の世は、不公平なものであるよといわねばならぬ。≫(中原中也「いのちの声」)
との謂いを嗤うか。
<人はパンのみにて生くるにあらず>もまた、これ真理であろう。
≪詩人とは魂の労働者である。≫(秋山駿)

「自分がいま現にここにいるという名状しがたい状態、いわば、現存する!という一つの生の音調に、裸の姿で、率直に、また単純に、接近したものはないと思う。・・・彼の詩は、いわば、その<現存>と、その<ここにはない何か>を思うことの中間にある。というより、この中間、生きているということが単純に深く感ぜられる、極度に人間的な生の一領域を歌ったものだ。」(秋山駿・「小林秀雄中原中也」レグルス文庫)


<永訣の秋>

ゆきてかへらぬ  ――京都――

 僕は此の世の果てにゐた。陽は温暖に降り洒(そそ)ぎ、風は花々揺(ゆす)つてゐた。

 木橋の、埃りは終日、沈黙し、ポストは終日赫々(あかあか)と、風車を付けた乳母車(うばぐるま)、いつも街上に停(とま)つてゐた。

 棲む人達は子供等は、街上に見えず、僕に一人の縁者(みより)なく、風信機(かざみ)の上の空の色、時々見るのが仕事であつた。

 さりとて退屈してもゐず、空気の中には蜜があり、物体ではないその蜜は、常住食すに適してゐた。

 煙草くらゐは喫つてもみたが、それとて匂ひを好んだばかり。おまけに僕としたことが、戸外でしか吹かさなかつた。

 さてわが親しき所有品(もちもの)は、タオル一本。枕は持つてゐたとはいへ、布団(ふとん)ときたらば影だになく、歯刷子(はぶらし)くらゐは持つてもゐたが、たつた一冊ある本は、中に何も書いてはなく、時々手にとりその目方、たのしむだけのものだつた。

 女たちは、げに慕はしいのではあつたが、一度とて、会ひに行かうと思はなかつた。夢みるだけで沢山だつた。

 名状しがたい何物かゞ、たえず僕をば促進し、目的もない僕ながら、希望は胸に高鳴つてゐた。

     *            *             *

 林の中には、世にも不思議な公園があつて、不気味な程にもにこやかな、女や子供、男達散歩してゐて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を、表情してゐた。

 さてその空には銀色に、蜘蛛(くも)の巣が光り輝いてゐた。

<蛙 声>

 天は地を蓋(おほ)ひ、
 そして、地には偶々(たまたま)池がある。
 その池で今夜一と夜さ蛙は鳴く……
 ――あれは、何を鳴いてるのであらう?

 その声は、空より来り、
 空へと去るのであらう?
 ・・・
              (「在りし日の歌」)


<現>――
「そこ」に投げ出されている存在としての人間、それを「現存在(Dasein=そこにある)」と称する。存在するその<現>において存在の意味が了解され顕かになる、その「そこ」が<現>である

「現存在は、単に他の存在者の間に並んで現れる存在者ではない。それはむしろ、自己の存在においてこの存在(=「ある」ということ)そのものに関わっていることによって、存在的に際立たされているのである。…この存在者には、自己の存在と共に、この存在を通して、この存在が自分自身に開示されている、ということが具わっているのである。存在了解そのものが、現存在の存在規定なのである。」――M.ハイデッガー

≪よく晴れた日だった。三時過ぎになって、太陽が西へ傾きはじめると、その赤い斜めの光線がまっすぐに部屋の壁に当たって、鮮やかな斑点となってその場所を照らし出すのを、おれは知っていた。おれはそれが前の何日かの経験でよくわかっていた。そして一時間後には必ずそのとおりになる。しかもなにより問題なのは、ニニが四というくらい正確に、おれには前もってそれがわかっているということが、腹の中が煮えくり返るくらいおれには癪にさわってならなかった。おれは発作的に大きく寝返りを打った。ところが突然、物音一つ聞こえない静寂を破って『われらが主、イエス・キリスト、なにとぞ我らを憐れみたまえ』という言葉が、はっきりとおれの耳に聞こえたではないか。その言葉はなかばささやくような声で、そのあとに胸いっぱいの深い溜め息がつづいた。そしてあたりは再びひっそりと静まり返った≫(ドストエフスキー『未成年』第三部第一章)

  死と同じように避けられないものがある。それは生きることだ。チャールズ・チャプリン