yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

デレク・ベイリーとアンソニー・ブラクストン『デュオ』LP2枚組み(1974)。体験としての<空・虚・ウツ>へのなだれうつ放心の美。無明の明。

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Anthony Braxton + Derek Bailey - The First Set: Area 1

             

デレク・ベイリー
イメージ 2無根拠な、無に充溢する空・虚へとなだれ込むランダムネスの透き通った放心の美。デレク・ベイリー『IMPROVISATION』(CRAMPS/1975)≫とは、いくつかの既投稿記事のうちの一つのタイトルだ。情けないことにこれ以上にいまのところ言葉が出てこない。想像力の枯渇なのだろう。受容する感性は開かれていると思っているのだけれど、想像力・思考の枠組みの固着ということなのだろうか。いやただ単に音にたゆたい愉しめば良いだけのことなのかもしれない。それは演奏者であるこのデレク・ベイリーDerek Baileyの目指したことでなかっただろうか。そうなのだ。解き放たれた煌めく≪放心の美≫に付き添うだけでよしとするべきなのだ。その体験だけを良しとすれば済むことなのだ。意味という枠で拘束し、言葉で了解しようとするのは逆戻りではないか・・・。ところで、もう久しく本格的な読書らしい読書などしていない。もちろんこのブログに時間をとられているということもあるけれど。後悔はしていないし、そのことを馬鹿にもしてはいない。ことばを生業(なりわい)とせぬシロウトにとって、ことばを紡ぎだすにはいい機会、場所だと割り切って思っている。ということで文字に目を通すのはここ最近殆んど新聞だけだ。いまのところ、その唯一の情報源である新聞記事に、先の述べたことのきっかけを与えてくれた記事があった。作家、保坂和志のコラムcolumnだった。次の如くであった。

≪「小説は論文じゃない。朝起きたり道を歩いたりすることをわざわざ書く。そのこと自体が何かでなければおかしい。・・・小説とは読後に意味をうんぬんするようなものでなく、一行一行を読むという時間の中にしかない。・・・そこにあるのは言葉としての意味になる以前の、驚きや戸惑いや唐突な笑いだ。・・・小説家は意味でなく一つ一つの場所や動作や会話を書く。それが難しいのだ。読者もそう読めばいいのだが、やっぱりそれが一番難しいから、意味に逃げ込む。」(保坂和志カフカ・城」)≫

≪意味に逃げ込む≫。これほど簡単なことはないと作家、保坂和志は言うのだった。≪カフカの小説は比喩ではない、ある特殊な体験なのだ。・・・小説を比喩として解釈する時代は、カフカが終わらせたのだ。≫(同上)

意味世界から超越する試みが発する純なる響きの経験とは、はなから思って来ていたことであったが・・・。それにしても言葉の創出がままならないとは。

イメージ 3デレク・ベイリーと若き俊英アンソニー・ブラクストンAnthony Braxtonの1974年に行われたデュオによるコラボレイションのライヴドキュメントLP2枚組み。若き俊英の才気煥発と融通無碍のデレク・ベイリー。だが、<場>を決定、生成しているのは無機的でさえあるデレクの弾き出すギターの<空・虚・ウツ>へのなだれうつ≪ランダムネス≫でありその≪透き通った放心の美≫である。

再度先日のセリフが口をついて出て来る。
≪「俺が夕焼けだった頃、妹は小焼けだった。オヤジが胸焼けで、お袋が霜焼けだった…わかるかな? わかんねぇだろ~な~」≫
いや分かるわからないではなく、体験をして欲しいだけなんだけれど。



以下工作舎刊、かの松岡正剛創刊するオブジェマガジン『遊』<1008>号(1979)のデレクベイリーへのインタビュー記事からの抜粋である。(再々録)

≪兎も角、速度と音、この二つの関係が大切なことは確かだ。≫

≪朝起きて何かを作曲し、それを確かに演奏させる、私には考えられないことだね。一般にはその方が.立派なことで権威があるかのように考えられているようだけれども。フィジカルな演奏以外には考えられない。≫

――楽譜という抽象的記号を通して演奏するということに関してはどうですか。

≪それは大きなテーマだが、私にはほとんど無意味なことだ。ますます意味がなくなってきた。長年演奏してくるにつけて。.職業的に演奏していた頃は、いやでも楽譜を読まなければならなかった。それでないと雇ってもらえなかったしね。読みもし、書きもした。だが、もう何年も楽譜というものを使っていない。音楽を紙に記す、音楽的情報を紙を介して伝えることに関して、私は何の共感も感じない。≫

インプロヴィゼーションと作曲とのひとつの違いは、時間的要素だろう。ひとつの音という容器に込める時間。作曲するなかで、音本来が持っている時間が希釈されてしまう。何も知らないということの雲から放射されてくる音ほど強力なものはない。日本式にいうと「無明の明」ということかな。増大する知識に抗してこの無明の明の境地に至るにはどうしたらいいか。演奏にまつわるさまざまな知識やノウハウを、どうやって解消していくか。インプロヴィゼーションを続けるには、この無明の域を持続させていくことが一番肝心だ。ノウハウを蓄積するのとはちょうど逆のことになる。無明を持続するノウハウを知りたい、とすら思うね。(笑)≫

インプロヴィゼーションを続けるのに、二つの問題を超越しなければならないと思う。ひとつはキャリア志向。そして自分のやったことで、みなに満足してもらおうとする、関係性への幻想。第一の問題の解決は言ってみれば簡単だ。誰も雇ってくれないような奏者になればいい。≫

≪私の場合を言えば、ともかく演奏しているのが一番好きだから、演奏することの意味だとか、その結果などというものは考えたくもない。≫

≪自分の演奏に対して、どんな意見を言われても完全に無視すること。客が一人も入っていなくとも、どんなジャーナリストが来ていても、いなくても、それら一切のことを気に留めない。.アートを問題にしているというのに、あらゆる意見にいちいち耳を傾けるというのは、二十世紀的風潮に思えてならない。ポピュラリティーというのが何らかの価値を意味するようになっているようだ。≫

≪人間が始めて音楽というものを生み出したとき、それはフリーインプロヴィゼーションであったに違いない。またあらゆる時代にも、フリーインプロヴィゼーションはあった。たとえばどんな短い、小さな、人知れずおこなわれた行為であったにせよだ。儀式以前の初期の音楽、あるいは子供が鳴らす音……楽器やものをもったあらゆる人が、どこかの時点でフリーインプロヴィゼーションをやっている。≫



Anthony Braxton + Derek Bailey - The Second Set: Area 7








Evan Parker/Anthony Braxton/Derek Bailey - Mutala (Company 2)