yuki-midorinomoriの日記

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江戸時代の浮世絵師・鈴木春信の画集。婦女子の微笑ましく愛らしい世事の振る舞いに文化背景をみる。

梅の枝折
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桃山晴衣/れんぼながし  Harue Momoyama / Renbo nagashi

          

真偽のほどは分からないけれど、日本人が語学下手なのは、構文の違い云々より、必要としないからだ。外国語を習得せずとも、十二分に社会生活を、いやそれのみか高度な知的レベルでの作業ですら差し障りがないからだ。という意見があった。大学レベル、いやそれ以上の一般的な高等知識ですら日本語だけで事足りる基礎的素養の歴史的集積があるからだというのであった。外国語文献に直接原語で当らなくても、自国語、日本語での研究思索研鑽で済むからだというのだった。発信力云々はともかく、自国語で思惟すればそれが即世界レベルに達することが出来るほどに高度な文化的歴史的蓄積があるからだというのであった。自国語のみでこうしたレベルの知識が習得される国、言語はすくないそうだ。世界最古の小説とさえいわれている源氏物語を出すまでもない。また江戸時代の数学者関孝和のように≪数学者の藤原正彦によれば、関はニュートンライプニッツとほぼ同時期に微分積分の一歩手前までたどり着いた。≫(WIKIPEDIA)と、今日に至るまで世界に誇りうる独自性として屹立する人物を輩出している。世界に最も貢献している日本での学問分野は数学界なんだそうだけれど・・・。また、安藤昌益の社会思想、自然哲学の世界的な先駆性もよく言われることだ。シモジモに至るまでのインフラ、文化的蓄積の歴史積層の質の浸透性、習得が、あえて外国語を必要としないドメスティックで事たる世界をつくりあげてしまっているという稀な国、ということなのだろう。それらが語学習得に熱が入らない、必要としない遠因の一つだというのだ。そうかなとも思わせるのが日本の識字率の高さだ。このことは、いうまでもなく明治維新以降の近代国家建設の礎となった大きな要因としてつねにあげられるところであるが。≪18世紀、識字率がロンドンで20%、パリでも10%未満だった時期に、江戸では識字率が70%を超えていたそうです。≫(ネット記事より)≪江戸イメージ 2時代の庶民の寺子屋の就学率を見ると、嘉永年間(1848~1854年)頃の江戸で、70~86%くらいだったという。これは当時のヨーロッパ諸国と比べてもはるかに高い数字。また、国民の識字率もかなり高かったようだ。≫(同上ネット記事より)というのもあった。≪日本の識字率は、数百年に亘って世界一。1400年代に日本に来た朝鮮通信使の申叔舟は、日本人は男女身分に関わらず全員が字を読み書きすると記録している。
また大東亜戦争後、日本から漢字を排除しようとしたGHQは、日本側の反対に遭い、全国20カ所で15歳〜65歳までの2万人を選んで日本語テストを実施。平均80点以上の高得点に唖然とし、アメリカ人ではあり得ないと驚嘆し、日本語のローマ字化を中止した。
また、わざわざ東北を中心とした田舎の農村から、高齢者ばかりを集めて難解な漢字テストをした所、当時のアメリカの識字率を上回り、逆にアメリカに恥をかかせたという話もある。≫(同上)旧い歴史はともかくとして、これらはいうまでもなく、近世、江戸時代の寺子屋の存在が与っているとはよくいわれることだ。≪文化年間(一八〇四~一八)に江戸府内には千二、三百の大小寺子屋があったという。≫(同上)さて、以下は【学費でみる江戸時代の教育事情】というネット記事より拝借引用文である。

≪庶民の家庭では、主に寺子屋や郷校を利用して子どもに教育を受けさせていた。特に江戸や大阪などの都市では、学問を身につけていれば奉公に有利ということもあり、男女問わず寺子屋に子どもを通わせる傾向にあった。商人の男の子では、この寺子屋の入門期間を終了して10代で奉公に出ることが多かった。また女の子は、武家への奉公や良縁につながることから、寺子屋で学問と同時に裁縫を習ったり、三味線、琴、踊りなどのお稽古事に通うこともあった。たくさんの習い事をしている女の子は、毎日早朝から夕方までかなり忙しかったというから、夜遅くまで塾通いをする今どきの子ども並みに疲れていたのかもしれない・・・

寺子屋の場合、家庭の格や資力によって授業料の額に差を付ける場合があった。つまり、払える余裕がある家庭は多く払うし、余裕のない家庭は少なくて構わないということ。また寺子屋の場合、授業料といっても地域によって払い方も異なり、江戸では現金払いが主流だったが、地方では現物払い(酒、赤飯、そば、うどん、餅、するめ、季節の野菜や果物など)が多かった。無償ではないといっても、教育の経済的な負担はあまり重くなかったといえるだろう。
寺子屋の場合、授業料を滞納してしまうことがあっても、寺子屋の師匠は強く請求したり、そのことで破門にしたりということはなかったようだ。それは、彼らが金儲けのためではなく、師として未来ある子どイメージ 3もを教え導くという信念のもとに寺子屋を経営していたからだったと思われる。・・・
江戸時代の庶民の寺子屋の就学率を見ると、嘉永年間(1848~1854年)頃の江戸で、70~86%くらいだったという。これは当時のヨーロッパ諸国と比べてもはるかに高い数字。また、国民の識字率もかなり高かったようだ。・・・

こうした高い就学率、教育熱の背景には、日本人の勤勉な国民性があったのだろうが、学費の負担の軽さもあったといえるだろう。家庭の資力によって差を付けた寺子屋の授業料、有力者による郷校への寄付など、江戸時代には、経済的に豊かな人が教育を支えるシステムがあった。そのために、家庭の資力に関係なく希望すれば誰でも就学し、平等に教育を受けることができたのである。当時のお金持ちには、お金があるから自分の子どもにだけ良い教育を受けさせる、というより、子どもは社会の財産だから、自分のお金で皆に良い教育を受けさせよう、という発想があったのだろう。そのことで、統一された公教育制度がなくとも、国全体の教育システムがスムーズに機能したのではないだろうか。≫

ところで、こうしたこと(リテラシー)を述べるのが今日のブログ投稿記事の本来ではなく、江戸時代の浮世絵師・鈴木春信の画集を図書館で借りてきて、つらつら見ているうちに思ったことだったのだ。浮世絵に出てくるのはほとんどが女性(どうしてか?)だけれども、その妙齢の女性、あるいは乙女、少女の振る舞いがことのほか、微笑ましくハツラツ、生き生きとしている様に、それを支えている背景に思いが及んでのことだった。女性の社会進出めざましいとはよく言われることだけれど、そのような素地はすでに近世、江戸時代からのものだったのだ。飛躍するかもしれないけれど、いままでの日本の国力を大きイメージ 4く支えていたのは、女性のそうした影での、潜在力のなせるところでもあったのだろう。女の子供たちですらもが読み書きを修学していたのだから。そうしたことなど、封建制・身分制などから来るイメージとは違う、案外オープンで、鷹揚、余裕すら感じさせる、微笑ましく愛らしい世事の振る舞いを垣間見せてくれた絵を見ての感想だった。

                  「夏姿・母と子」