yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

細川俊夫『うつろひ・なぎ 作品集Ⅶ』(1998)。ひたすらな静寂余韻に、緩やかに燃える情念の揺らぎ。激することには何ものも生み出さないとでも言うかのごとく。

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Toshio Hosokawa: Landscape II (1992)

               

       「大地」の部屋≪うつろひ・宮脇愛子-a moment of movement≫

「在る」と「無い」を渡る。〈これ〉、「心」とはそうしたものではないだろうか。路地を影法師がよぎり、薫風が頬をなで、空の高みを鱗雲(うろこぐも)が渡って行く。〈あなた〉は誰か。何の告知(しらせ)なのか〈あれ〉、「気」というのだろうか、何と言って名付け難い〈気配〉、それが「在る」ことのいとおしさをいつも私たちに教えている。・・・

屋外では風も立つ。それは揺れる。陽は渡り、影も移る。屋内では光と影にたたずむ。愛しい生命の飛行の軌跡のように。現われては消える旋律の掛け合いのように。回転しながら飛躍を続ける踊り手たちのように。たたずみ、繋り、渡る。人は何処からともなくここに来て、たたずみ、歩み、去って行く。何かが再び見出され持ち帰られる。
神話の世界に遊ぶのもよいだろう。大地の女神・母なるガイア黄泉(よもつ)平坂、冥府巡り。山、風神・雷神。湖、龍神…。そういう〈もの〉の物語にも託されて語られてきた〈気配〉。〈自然〉としか良い呼び名のない〈こと〉。
改めて言うまでもなく、森羅万象が移ろって行く。全ての移ろって行くものたちの残す余韻は全感覚的な出来事である。懐かしい記憶、あるいは淡い予感、何といって名付け難い気配。それらはきっと、〈無い〉ことに支えられた〈在る〉ことのいとおしさを私達に教えてきたのだ。それは「秋草の美学」とか「うつろひの美学」とか呼ばれる日本の美学かもしれない。しかしそれは淡白なだけではない。濃密度をもった闇と光の美学でもある。生死の間にある位相。〈ある〉と〈ない〉を渡る生命。あるいは〈ない〉に支えられた〈ある〉ことのいとおしさ。〈あはれ〉
            「3つの会話」 高橋幸次(東京国立近代美術館研究員)より抜粋

イメージ 2≪この人の曲の人気の秘密は分かりやすさ。音楽のムード,音色,アタックのタイミング,音の受け渡し方,うねりの周期,すべて予想どおりになっている。安全,安心なのだ。≫(ネット通販・CD紹介より)とは、いささか皮肉を込めた評言コメントといえるだろうか。一時流行った「想定内」という言葉を思い出す。マネーゲームで時の人となったあのお方ははや噂にものぼらない。さて、こうしたコメントが評者から出てくるほどに、その人気があまねく広まっている作曲家と逆説的に言えるのだろうか。差異こそ存在証明とばかりに、大衆的評価の高まりとパラレルに、それに反発、距離を措く知者があるように。たとえば、メディアに露出するタレントの好きと嫌いの拮抗するのが人気バロメーターであるように、今日取り上げる作曲家細川俊夫(1955 - )もそうした人気、実力が認められていることの逆説的証明でもあるのだろう。そうでなければ無視されるのが世間の相当評価というものであろう。さて、以前すでに拙ブログで一枚、この細川俊夫のアルバムを≪明晰と余情、込めたパッションに精神の重さを聴く『ペルソナーレ――音宇宙Ⅱ・細川俊夫作品集』(1988)≫とタイトルして取り上げている。≪ドイツ留学で作曲を師事したイサン・ユンYun I-sang、クラウス・フーバーKlaus Huber、ブライアン・ファーニホーBrian Ferneyhoughと、その名を耳にするだけでも音作りへの姿勢が推察できる。また彼の著した書物で知るところによるとヘルムート・ラッヘンマンとの交流も密であるらしい。イサン・ユンの精神の緊張と密度、ラッヘンマンの音響への実験性。確かにこうしたものを骨格としてもち、やはり日本人というべきか、武満の音への姿勢の近親をもつというべきか、ひじょうに引き締まった抒情と余情を強く感じさせる音の世界である。≫とそのブログ記事内で述べた。凡そはこれに尽きるけれど、先のアルバムより約10年経ての作品集ということで清新、才煥発からの成熟といえるのか、余韻を込めたゆるい持続音が全体を通奏支配しての曲つくりのせいか、いくぶん武満をソフィスケートした印象をもつのは私だけだろうか。それが先の≪すべて予想どおりになっている。安全,安心なのだ。≫との皮肉っぽい評言の出るゆえんなのだろうか。もうお見通しだよという訳なのだろうか。それはともかく、特殊奏法の使用も抑制された余情を引き出すべく効果的に使われている。練達といえばそうだし、お見通しといえばそうだし、余情の書法の浸透といえばそうだしといったところだろうか。ともかくこの今回取り上げるアルバム『うつろひ・なぎ 細川俊夫作品集Ⅶ』(1998)(中央図書館での予約貸し出しでかりたもの)を聴いて一言紡ぎだせば≪ひたすらな静寂余韻に、緩やかに燃える情念の揺らぎ。激することには何ものも生み出さないとでも言うかのごとく。≫となるだろうか。最後に、自作品解説文にある作曲家のことばを引用して擱えよう。

≪「遠い風景とは、懐かしい記憶の古層の響きでもあり、また、未だに聴いたことのない未知な音の世界への窓でもある。」≫

≪「音楽はやがて、自然(オーケストラ―引用者注)の呼吸と独奏者の呼吸が一緒になり、空白に向かって静かに進んでいく。」≫


収録曲――

1. 「うつろひ・なぎ」(笙,弦楽オーケストラ,ハープ,チェレスタ,打楽器のための)(1995)
2. 「歌う木」-武満徹へのレクイエム-(児童合唱のための) (1996)
3. 「遠景」2(オーケストラのための) (1996)
4. 「チェロ協奏曲」-武満徹の追憶に-(1997)


アルバムタイトル、その機縁となった宮脇愛子作品『うつろひ』に添えられたゲーテの詩。
     水の上の霊の歌 (ゲーテ)

     人のたましいは
     水にさながら
     天より来ては
     天にのぼり
     かくてふたたび
     地上にくだる
     永遠にくり返しつつ

     高い 切り立った岩壁から
     しろじろと
     噴き落ちる一条の滝
     見るまにやさしく
     霧と散って
     降りかかり 岩のおもてを
     なめらかにぬらすと見れば
     水けむりあたりにこめて
     さやさやと
     せせらぎくだる

     せきとめる
     岩角ごとに
     不興げに泡立ちながら
     段なして深谷へ
     落ちてゆく

     草地に出ては
     平らな河床をしずかに進み
     おだやかな湖となっては
     すべての星々が
     おもざしをうつす

     風は波の
     いとしい恋人
     風は掻きたてる
     泡立つ浪を

     人のたましいよ
     水にさながら
     人の運命よ
     風にさながら   
            (高安国世訳)



Hosokawa: "Vertical Time Study I"