yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

アウトサイダー・アート(アール・ブリュット)と1957年から50回の長きにわたり行われている「全国盲学校学生短歌コンクール」よりの選ばれた秀歌

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                生の芸術 アール・ブリュット

≪・・・しかし、 鈴木(大拙)がいっているのは、自己を一度も閉じないで解放させるのが禅の方法だということです。それによって全創造がその人の中に流れる。私はこの講義の内容を貴重に思って、内側に向かう座禅をしたり無我夢中になったりすることよりも、チャンス・オペレーションズを通して外に向かうことにした。自己管理よりも外に放ったほうがいいのです。だから私は、芸術を自己表現ではなく自己変革と考える。いずれにしても、完全にまわりきって円になればいいのです。≫(ジョン・ケージ)

≪私の場合を言えば、ともかく演奏しているのが一番好きだから、演奏することの意味だとか、その結果などというものは考えたくもない。

≪自分の演奏に対して、どんな意見を言われても完全に無視すること。客が一人も入っていなくとも、どんなジャーナリストが来ていても、いなくても、それら一切のことを気に留めない。アートを問題にしているというのに、あらゆる意見にいちいち耳を傾けるというのは、二十世紀的風潮に思えてならない。ポピュラリティーというのが何らかの価値を意味するようになっているようだ。≫(デレク・ベイリー)


データストックしてあるUSBメモリーの携行をしてこなかったようで、手元に見つからずお手上げ、ということで、今日は画像貼り付けと、つい先日新聞で読んで印象に残った記事を紹介することで擱えよう。画像は非健常者の絵画、いわゆるアウトサイダー・アート(アール・ブリュット)のもの。 ≪アウトサイダー・アート(outsider art) とは、フランスの画家ジャン・デュビュッフェ(Jean Dubuffet; 1901年-1985年)がつくったフランス語「アール・ブリュット(Art Brut)」を、イギリスの著述家ロジャー・カーディナルが英語の「アウトサイダー・アート」という表現に訳し替えたものである。その意味は、デュビュッフェが1949年に開催した「文化的芸術よりも、生(き)の芸術を」のパンフレットには、「アール・ブリュット(生の芸術)は、芸術的訓練や芸術家として受け入れた知識に汚されていない、古典芸術や流行のパターンを借りるのでない、創造性の源泉からほとばしる真に自発的な表現」のことだとある。≫(WIKI)。だいぶ前にNHKの新日曜美術館での特番をみて、考えさせられたということで・・・。
それと、昨日の新聞で目にした盲学校生(高校生)の1957年から50回の長きにわたり行われている「全国盲学校学生短歌コンクール」よりの選ばれた秀歌の紹介。


     分からない色の黄色は分からない黄色い声は弾んでいるね

     活けてある窓辺の百合に手触るればやは陽に花のあたたまりおり

     知らぬ街ブロックが足に触れ張りつめし心やっと柔らぐ

     言葉ではとても言えない大好きな君の手にそっと指点字打つ


ここにはつたわってくるものが確かにある。

健常の芸術家に次のことばがある。「見るとは眼をとじることだ」ヴォルス


pop!talk: Henry Darger: An Outsider Artist In All Of Us