yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

散歩途上の未だ咲き乱れる枝垂桜。「散る桜 残る桜も 散る桜」(良寛)。

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    は な は み な い の ち の か て と な り に け り   森アキ子

毎日曜日は、拙宅からさほど遠くないわが町の図書館へ散歩がてら足を向ける。格好の花見日和であった先々週の日曜日は、その機会を失してしまい今年もこれで桜とは、ついに観もせでお別れかと浮かぬ思いでつぶやきはした。年を重ねるにつけ節目節目での自然の営みとの出会いは、等し並みの感懐を持つもののようだ。とりわけ庭木や草花の美しく咲き誇る姿とのそれは身近のものであるだけに、己が生きるということへの格別の心の襞を撫でてゆくもののようだ。ひょっとしてこれが・・・、というつぶやきも無いではないのだ。これは別に大げさな謂いではない。はや、斯く加齢してきたということだ。ということで其れかあらぬか、普段はせぬ、休日の散歩にカメラ付の携帯電話を所持して出かけた。遅咲きの八重の桜とか、今を旬の春の草花、庭木の花などをカメラにおさめる出会いがあるかもしれないとの思いだったのだ。住まいするところが少々の高台ゆえ、幾分の寒さが幸いしたのか、途上の小学校横の疎水べりに植えられている枝垂桜は、まだ盛りだった。やはりシャッターを押した。その時の携帯電話のカメラで撮った写真が貼り付けた当のもの。さて、その桜ということばに、まず口の端にのぼるのが桜の歌人西行。その西行の・・・願わくば ・・・ 春死なん・・・もう引くのはやめておこう。なにやら気恥ずかしい。とはいえ、次の

     「風に散る花の行方は知らねども 惜しむ心は身にとまりけり」

     「梢うつ雨にしをれて散る花の惜しき心を何にたとへむ」

などには、そうした気恥ずかしさはない。

ところで、学生時代わがクラブの部室の隣が劇団の部屋だった。その部室の黒板に殴り書きしてあったのが「花二嵐ノタトエモアルササヨナラダケガ人生ダ。」だった。桜の季節、桜を目にするたびこの名文句が反戦・学園闘争の吹き荒れる学生生活の思い出とともに口をついて出てくる。これは井伏鱒二が言の葉にのせた最初らしいけれど、当時アンダーグラウンド演劇で学生たちを魅了し、絶大な影響を与えていた寺山 修司 (1935 - 1983)が好んで口に乗せていたということからだったのだろうか。

酒なくて何の己が桜かな。今日も酒酒 明日も酒。」という調子のいいことばも桜花ともども浮かんでくる。

さて、わが良寛は見事な桜の歌を遺している。

     「散る桜 残る桜も 散る桜」

残る桜もいずれ散る・・・。人生、無常を詠い辞世としたということだなのだろう。