yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

『小沢昭一が訪ねた「能登の節談説教」』。話芸、≪現在の落語や講談・浪曲などの高座芸能の源流≫。≪「うたうが如くはなすが如く、ハナシがフシになりフシがいつのまにかハナシに戻るという妙味」≫の話芸。

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イメージ 2話芸を究める、そのルーツをさぐる、はてまた大衆芸能の源流を求めるといったことの情熱が、こうした音源を求めての旅となったのだろう。俳優小沢昭一放浪芸を求めての、執念ともいえるその一連のドキュメント音源集は、立派な業績となって結実していることはもはや衆知の事であり、それらに対してさまざまな顕彰がなされている。今日取上げるCDは≪小沢昭一が訪ねた「能登の節談説教」≫とタイトルされているものであり、もちろんいつものごとくの図書館でのネット借受のもの。「節談(ふしだん)説教」。読んで字のごとくで、仏の教えを節(フシ)をつけて布教教化するというもの。すでに、経の読経には、我が国の伝統音楽の殆んどすべての源流とされている節(フシ)をつけての声明(しょうみょう)というものが仏教の伝わってこの方、古来よりあった。人は唄い唱えて崇め奉る。斯く≪平曲・謡曲、民謡、浄瑠璃などの音曲は声明の転化といえる。単旋律音楽にあたえた影響が大きい。≫(WIKI)と指摘、了解されている。これらの節回しなど聴いていると、たしかにさもありなんと思える。ところで、節(ふし)をつけて語る芸能、話芸の、≪現在の落語や講談・浪曲などの高座芸能の源流≫が、この節談説教に求められている。史上最初の落語家はこの節談説教に長けた≪誓願寺浄土宗西山深草派総本山)の住職の安楽庵策伝(あんらくあん さくでん、1554-1642≫と言うことだそうだ。坊主の説教が話芸の始まりであり、読経の音楽化、節回しが伝統音曲の始まりといわけだった。≪「うたうが如くはなすが如く、ハナシがフシになりフシがいつのまにかハナシに戻るという妙味」≫の話芸で、経典の教えを≪理屈っぽい話より、たとえのたくみな話≫で楽しく、面白く、教えを説いてゆくのが節談説教なのだ。かつて、そうした人を惹きつける話芸での仏説の法話、講話が、一種の娯楽としても、また歴史を、民俗を学ぶ機会としても、生きる道、人の世の倫理を学ぶ貴重な機会でもあった。娯楽の少ない時代、多くの庶民は≪落語や講談・浪曲などの高座芸能≫などから、≪楽しみながら、世の中、人生、万般≫のオシエを学んできたのだった。≪「はじめシンミリ、なかオカシク、おわりトウトク」≫と≪フシで情感に訴える≫話芸の力。信仰と娯楽を併せ持つのが節談説教と言うわけだった。









日本の伝統音楽歌唱編 出会おう!いろいろな歌唱 新内節ほか このサイトは秀逸です。ぜひご覧ください。