yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

池辺晋一郎『池辺晋一郎:管弦楽作品集』(2004)。<喝>!、単なる意匠を越えた精神の裏づけのありやなしや。こうでしかありえないと云ったモチーフ、イメージ・・・全体を貫くもののありやなしや。

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イメージ 2毎日曜日のテレビ番組、「サンデーモーニング」でのスポーツコーナーではないけれど、ゲストが、その週のいろいろなスポーツトピックに対して、その各々に良ければ<アッパレ>、悪ければ<喝・カツ>の掛け声のもと評定下されボードにシールが張られる趣向に倣って云えば、今日の取上げるCDアルバムには、<喝・カツ>が下されようか。早くから注目され、その才能を評価されてきた池辺 晋一郎(1943 ‐ )の『木に同じく~池辺晋一郎:管弦楽作品集』(2004)とタイトルされたCDが今日取り上げるもの。この作曲家の圧倒的な受賞暦をみれば、作品のよしあしと共にその期待度も分かろうというものだろう。たぶん作曲技法、オーケストレーション技術には抜きん出て優れているものがあるのだろう。映画音楽や劇付帯音楽は言うまでもなく、CM音楽等も万事そつなくこなす才の持ち主であるからこその引く手あまたなのだろう。もう、私が何を言いたいかは察せられていることだろう。要するにこの域を出ていないとしか私には思えなかったのだ。パッチワーク的な作品イメージが抜け切れなかったのが正直な印象だった。こうでしかありえないと云った強固なモチーフ、イメージが果たしてこの作曲家にあるのだろうかと聴きながら思ったのだった。個々の音つくりが優れていても全体を貫く<もの>が見えてこないもどかしさを何としたらいいのだろう。抜きん出た才能がつくりあげた作品であることは言うまでもない。だが、何かしらの物足りなさを拭えないのも確かなことなのだ。私の思いのたけは一昨日の投稿記事≪ソフィア・グバイドゥーリナオッフェルトリウム Offertorium』。祈りと哀しみに満ちた世界は霊妙な余情のうちに示現する。単なる意匠を越えた強靭な精神の裏づけにたじろぐことだろう。≫に尽きるのだけれど。ようするに≪単なる意匠を越えた強靭な精神の裏づけ≫のありやなしやであり、≪こうでしかありえないと云った強固なモチーフ、イメージ・・・全体を貫く<もの>≫が届いてこなかったということなのだけれど。ただここでこの作曲者の名誉のために一言いっておかなくてはならないかもしれない。引き合いの相手(図書館同時借受の2枚のうちの一枚)が直近投稿のソフィア・グバイドゥーリナの精神の強靭、真摯であることをだ。旧い(1973)批評記述なのだけれど次のようなことばがみえる。以下のごとくだ。≪・・・しかし、考えてみると、このようないわば実用音楽のジャンルにどっぷり浸かると、自分の“作品”を作曲するときにもある影響をもつことがあるように思う。たとえば、どんなスタイルでも書けるという自信めいたひとつの錯覚に囚われることもあるのではないだろうか。≫。≪・・・そして、いまそういったふたり(池辺晋一郎三枝成章――引用者注)にもっとも必要なのは、これまで受賞してきた才能でもなく技術でもないだろう。それは音楽の認識そのものの変革を展開するための創造的な行動であり、思考であろう。それは、たんなる前衛的な技法でもなく、奇怪なものへのアプローチでもないはずのものだ。池辺晋一郎の「全体をみる」ことのためには、まず音を「聴く」ことへの緻密で禁欲的な精神が求められるように、ぼくにはおもえる。音楽は音だけによる行動であるとともに、それが精神的知性的な内部変化をおこさせるものであるからである。音をコントロールするまえに、音のもつそうした未知の力を「聴く」ことが“作曲”することでもあるのではないだろうか。≫(1973)(秋山邦晴「日本の作曲家たち(下)」音楽の友社より)とあり、そして両者にとどまらず作曲にたずさわる者たちには≪明晰な認識を怠らない勇気こそが、いまわれわれには必要なのではあるまいか。≫と括っている。至極もっともなことであり、且つその多くをなされていないことなのでは、と単なる一現代音楽ファンにすぎない弩シロウトの私にも思える。そうした事どもに思いをいたしたCD鑑賞だった。これも、いつもながらの図書館所蔵のもののネットで借り受けたもの。最後に、けっして作品が劣るなどとは言っていないことを申し添えておきたく思う。

≪人の五官は、視覚と聴覚とを主とする。見と聞とが、外界に対する交渉の方法であった。しかしそれは、単なる感覚の世界の問題ではない。「みる」とは、その本質において、神の姿を見ることであり、「きく」とは、神の声を聞くことであった。そのように、物の本質を見極める力を徳といい、また神の声を聞きうるものを聖という。徳は目に従い、聖は耳に従う文字である。≫(白川静「文字逍遥」・平凡社))

神の声を聞くことのできる聰明の徳を聴といい、それで「きく」の意味となる。つま先で立って神に祈り、神の声を聞くことのできる人を聖といい、聖職者の意味となる。また神の声を聡(さと)く理解することを聡(そう)(聰。さとい)という。聴は聞き入れて「ゆるす、まかせる」の意味にも用い、聴許(聞きとどけて許すこと)という。(白川静「常用字解」


収録作品――
1. 交響曲第2番「トライアス」(1979)
2. チェロとオーケストラのための協奏曲「木に同じく」 (1996)
3. フルートとオーケストラのための協奏曲「砂の上に対座して」(2003)