ローマン・ハウベンシュトック=ラマティ。図形楽譜?!。なまじの正統伝統的な記譜による作品よりもエネルギッシュで生き生きと躍動して骨太な魅力ある音響に満ちている。
戦後音楽史上で最初に五線譜を離れ、図形楽譜を自作に果敢したといわれているモートン・フェルドマンは、革命児ジョン・ケージとの共同作業という強力な臆することのない実践者の協力もあって多大な影響を現代音楽界にあたえたけれど、“不確定性”“偶然性”という衝撃的なコンセプトの、その象徴的形象ともいえるだろう図形楽譜・グラフィックスコアーをはやばやと放棄する。つまりは≪記号を演奏者自らが解釈して、結果が読めない音楽を導く流行は、後に偶然性の音楽、不確定性の音楽を生み出す大きなきっかけになった。こうしてフェルドマンは世界的な認知を受けることになるが、フェルドマン自身は「結局は演奏家に好き勝手に楽譜を解釈され、自分の意図と違うものを聞かされる」事に耐えられず、70年代にはこの記譜法を放棄する。≫(WIKI)とある。たしかに、そうだろう。そのつどの解釈の違いで出てくる演奏結果は、たとえ作曲家個人のもつ意図(イメージ)を離れようが、一つの作品として受容されるサダメにあるといわなければならない。それがゆえの≪偶然性の音楽、不確定性の音楽≫とそれはいえるのだろう。つまるところ、この一点をめぐってのことと極論できる。放恣ととるか一回限りの永遠性、刹那性その美ととるかということでもあるだろうか。既成性、制度姓と同一性への問いかけ。いろいろと語られはしてきているらしいけれど、泥沼に入らないためにも今回のこの投稿ではこれ以上踏み込まないこととしよう。さてきょうの取り上げるポーランドを出自とする作曲家ローマン・ハウベンシュトック=ラマティ(Roman Haubenstock-Ramati, 1919 - 1994)も、この図形楽譜に依拠する先鋭な作曲家としてよく挙げられる人物だった。このアルバム以降の後半生の作風がどうだったかは私は詳らかにしない。ごたぶんにもれずこの世代のつねとして、出発は新古典派だった。けれど、この世代にしてはずいぶんと先鋭な時代を象徴する音響を採りいれている。先に投稿したベルント・アロイス・ツインマーマンと世代的には同じうする作曲家だ。それに祖国ポーランドの代表的な、先鋭にして真正の作曲家ヴィトルト・ルトスワスキもほぼ同時代人だ。少なくともこれら新古典派を出発とするこの世代の作曲家に言えることは、土台がしっかりしているように私には見受けられる。俗に基礎ができている・・・。たんなる伝統の忌避ではなく、根強いそれを包摂し乗り越えるという意志の確かさを感じるのだけれど。だからこそ、ことこのハウベンシュトック=ラマティの図形楽譜による演奏如何が問われることにもなる。はたして紡ぎだされているこれら音響は、当の作曲家の意図するイメージする音なのか?ひじょうに引き締まった音塊の推移展開で聴く者を魅きつけるのだけれど・・・。指揮者(エルネスト・ブールErnest Bour、ハンス・ロスバウトHans Rosbaud)の力量なのか、オケ(演奏)の力なのか、そも作曲家の力なのか?。音を聴くだけでは、到底信じがたいほどの完成度とまとまりをもっているから余計にそうしたことを思うのだ。実際のところ、どこまで図形楽譜のコンセプトが寄与反映しているのだろうか。音を聴いている限りではよくできている。なまじの正統伝統的な記譜による作品よりもエネルギッシュで生き生きと躍動して骨太な魅力ある音響に満ちている。やはりポーランド!?。歴史なのか、一本筋が通っている。
収録曲
1.「VERMUTUNGEN UBER EIN DUNKLES HAUS 暗い家への想像」
2.「“CREDENTIALS” OR THINK, THINK LUCKY クレデンシャルス(シンク、シンク・ラッキー)・語りと8楽器のための」
3.「TABLEAUⅠFUR ORCHESTER (1967) タブローⅠ・オーケストラのための(1967)」
1.「VERMUTUNGEN UBER EIN DUNKLES HAUS 暗い家への想像」
2.「“CREDENTIALS” OR THINK, THINK LUCKY クレデンシャルス(シンク、シンク・ラッキー)・語りと8楽器のための」
3.「TABLEAUⅠFUR ORCHESTER (1967) タブローⅠ・オーケストラのための(1967)」