yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

中村明一『霊慕』(2006)。少しやり過ぎではないのと謂う声が聴こえてきそうでもあるほどに、そのディフォルメ、奏法の斬新は聴く者にせまってくる。それは較べるもののないほどに際立って凄まじい。

イメージ 1

Akikazu Nakamura - Tsuru no sugomori 080518

             

杉浦康平+松岡正剛)――そういうナチュラリティを志向している形式はないんですかねえ。楽器にはありますか。

武満徹――尺八ですね。東西を通じても尺八くらいのものでしょう。

                   武満徹「樹の鏡、草原の鏡」(新潮社)

イメージ 2最近なんだか尺八づいているようだ。というより根っから好きな音色、響きということもあるからなのだけれど。吹き荒び、噎び、虚・空にゆれるノイズとでも言ったらいいのだろうか、しょうじき痺れます。顕れつつ隠れる、この奥深く玄妙な自然の息遣いそのものといってもいいような竹韻の響きほど、人にその現存在の<無底>を告げ知らせるものもないと思われる。余韻に聴くとはこの<無>性の覚自ともいえようか。まさに、法器たる尺八の吹禅というは、たぶんこのことでもあるのだろう。西田哲学の無の自覚の何たるかは存じませんが・・・。≪「恁麼時の而今(nunc et hic=今ここの現実生起)は吾も不知なり、誰も不識なり、汝も不期なり、佛眼も覷不見なり、人慮あに測度せんや(人間的知力でどうして洞察できよう)」(『正法眼蔵』溪聲山色)≫(『在ることの不思議』古東哲明より)合理主義者といえ、口にはださずともこころの片隅では肯んじていることだろう。無に曝される覚束無い寄る辺なさ・・・。
ところで、

≪中村氏はいう・・
『世界のほとんどの管楽器はその音を単純化させることで、
より速く、より音程を正確に、より大きな音を出すという方向に
 発展していった。
 尺八は逆に音を複雑化する方向に発展してきた。』≫

いや、尺八が≪複雑化する方向に発展してきた。≫というより、自然をそれとして受容するということをとことん手放さなかったということなのだろう。たぶんそれは、自然と対座する、向き合うことが何事かであったからだろう。そのことを端的に述べているのが

≪(杉浦康平松岡正剛)――そういう(本来的に音楽のあるべき自然との同質性に近づこうとする方法―引用者)ナチュラリティを志向している形式はないんですかねえ。楽器にはありますか。

武満徹――尺八ですね。東西を通じても尺八くらいのものでしょう。≫

ということばではないだろうか。
以前、尺八のアルバムで≪山本邦山・尺八の世界『緩急』(1974)。自然を抱き込み自然とともに竹筒を吹き抜ける風と息、ノイズを伴うゆらぎの音。虚空に響く深遠な精神性。≫とタイトルして記事投稿したけれど、悔しく情けないことに、こうした表現以上のことばが私には見つからない。
それにしても、今日取り上げる図書館借受の中村明一の『虚無僧尺八の世界 東北の尺八 霊慕』(2006)は、少しやり過ぎではないのと謂う声が聴こえてきそうでもあるほどに、そのディフォルメ、奏法の斬新は聴く者にせまってくる。それは較べるもののないほどに際立って凄まじい。おおかたの尺八名人は気分よからぬ事だろう。だが斯くまでのかつて聴いたことも無い尺八の息づかい、竹韻は、現代の自然定立、深山幽谷吹き抜けるその響きでもあるとして、おおいに讃されるべきものだと私には思われる。
≪尺八は「吹く」のではなく、尺八というフィルターを通じて、この世界に鳴り響いている無数の音を「伝える」のだ≫(中村明一)という、その絶する奏法に耳そばだてよう。

「知覚したものが非現実であるという感覚を、人々はいつから失ったのだろう。」R・D・レイン「自己と他者」)



『虚無僧尺八の世界 東北の尺八 霊慕』

1. 鶴の巣籠(つるのすごもり)
2. 霊慕(れいぼ)
3. 布袋軒 三谷(ふたいけん さんや)
4. 宮城野清掻(みやぎのすががき)
5. 風林(ふうりん)
6. 桜落(さくらおとし)
7. 蓮芳軒・喜染軒 鶴の巣籠(れんぽうけん・きぜんけん・つるのすごもり)