yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

『日本のしらべ』。西洋音階による流麗なオーケストラ編曲に乗っかっての伝統楽器の古典曲の演奏。伝統・古典曲に親しむ意味で、これもいいかも。

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Japanese Koto Quartet Radentai plays 五段砧光崎検校(みつざき けんぎょう)

          

日本という国は落ち着きのない国です。わずか10年の月日を、何事もなかったかのようにうち捨てて新奇にいそしむ。私は日本人が自然を大事にするとか、モノを大切にするとか、手先が器用だとか、美に繊細だとか・・・、そんなことはいっさい、これっぽちも信じてはおりません。このようなことは嗤うにたる俗説に過ぎないと。しょうもない矮小なエスノセントリズムethnocentrismから来る思い込みにすぎない。断っておきますが、自文化への誇りは矜持すべきはいうまでもないことと申し添えておきます。さて、のっけからどうしてこんな悪態の言葉が出てくるのか。というのも、わが町の図書館で借りてきた、きょう投稿のCD、制作は1998年とある。前調べにと制作会社のネット検索すれどヒットしない。しかしタイトルは変わらず曲目の入れ替え等で幾回か出されているようだけれど。マイナーチェンジということなのだろうか。それにしても使い勝手の改善云々の商品でもあるまいに。この腰の軽さ。落ち着きのなさ。ぼやいていても仕方ないので筆を進めよう。またまた<日本する>といったところか。わが人生の黄昏ということもあるのかもしれないが、日中の暑さ残るも朝夕に秋の気配の訪れを感じる時節、それにつれやはり気分も自ずとテンション下がるらしい。『日本のしらべ』へと自然が手招きするようなのだ。先日ラジオからも次の短歌が詠まれ流れていた。夏歌となっていますが・・・、さて。

     窓近き竹の葉すさぶ風の音にいとどみじかきうたたねの夢  式子内親王

いつも言うことだけれど、伝統楽器が西洋音階をなぞるのは何か居心地悪く、尻こそばゆい、とって付けたようなそぐわぬ感じが否めないのだけれど、西洋音階による流麗なオーケストラ編曲に乗っかっての伝統楽器の古典曲の演奏はまだしも心地よく聴ける。すぐれた編曲のなせるところかもしれないが、こうしたかたちでの伝統、古典曲への誘いもけっして悪いことでもないように思えてくる。以前、ラジオで作曲(メロディーの)は素人でもできるけれど、編曲はプロでないと出来ない、その編曲次第で大化けする。その意味ではアレンジャーのほうがエライなどと喋っているのを聞いたことがあるけれど・・・、さて。



『日本のしらべ』

DISC1
1.千鳥の曲<筝曲>
2.元禄花見踊<長唄
3.佐渡おけさ<民謡>
4.美しき天然<歌謡曲
5.神田祭<清元>
6.八木節<民謡>
7.越後獅子長唄
8.新内流し<新内>
9.梅にも春<端唄>
10.崩れ<琵琶>
11.小諸馬子唄<民謡>
12.さくえあさくら<古謡>

DISC2
1・越天楽<雅楽
2.秋の色種<長唄
3.お江戸日本橋<古謡>
4.黒髪<地歌
5.木遣りくずし<俗曲>
6.野崎村~新版歌祭文~
7.春雨<端唄>
8.深川<俗曲>
9.鹿の遠音<尺八古典本曲>
10.五木の子守唄<民謡>
11.勧進帳長唄
12.六段の調<筝曲>