yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

恥は人生にもっとも必要なことと説くダリコポップハプニングの秋山祐徳太子。恥かいて老いてますます盛んなり。

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1970年・ダリコパフォーマンス

秋山祐徳太子著『恥の美学』予告編

           

 至極もっともなまじめな自助努力が事態をますます悪くさせている  ジョン・ケージ
一般にユーモアというものは、作品の創造にとって不可欠のものでしょうか?
―― 絶対です。……くそまじめであることは実に危険なことだという理由で。くそまじめを避けるためにユーモアを介入させる必要がある。  マルセル・デュシャン

イメージ 2過日、朝日新聞で「人・脈・記 <前衛バカ伝説>」として6~70年代をアヴァンギャルドに生きた芸術家列伝を掲載していた。その中の一人に江崎グリコ飴ちゃん(関西・大阪独特の表現)、オマケ玩具つきで子供に人気のあったグリコキャラメル)の一粒300メートルで知られるマラソンランナー・キャラ(ゴールインマーク)をあらゆる場所でグリコならぬ<ダリコ>のタスキを掛けてハプニングパフォーマンスして名を馳せた?秋山祐徳太子(あきやま ゆうとくたいし、1935 - )が取り上げられていた。わたしはそのハプニングをリアルタイムに知る由もなかったが美術誌でそれ在るを知り、面白く、以後奇妙にそのペンネームの奇特もさりながら記憶に残っていたのだった。いや、それをより以上に強烈に記憶に刻み込ませたのは、後ち≪1975年と79年の2度にわたり、政治のポップアート化を目指して東京都知事選に立候補。≫したとのニュースを知ったことだった。もちろんこれは、その他オオゼイの泡沫候補よろしくの供託金没収という結果に終わったが、そもそのネライは≪政治のポップアート化≫としてのハプニングパフォーマンスであったということなのだそうだ。そのせいかあらぬか、選挙ポスターは≪国立国際美術館などに収蔵されている。≫(WIKI)のだそうだ。芸能人が政治の世界に、マスメディアで作り上げられた虚妄人気をバックに<本気>でうってでるアホらしさ、バカバカしいほどの逆の意味でのクソまじめな昨今の政治の演劇化とは少し違うようだ。裏返せば誰でもが務まる政治(つまりは裏で政治・行政を操る官僚政治の跋扈ともいえるし、それゆえか民度高い社会にあってはいっそ籤引きにせよ、やりたい奴がやれ、何も変わりはせぬとのたまう柄谷行人の意見もある)ということといえようか。すべて承知のアヴァンギャルドの真っ当な恥さらし。これこそが賞賛さるべき事態といえもしようか。クソまじめはろくな事態しか招きはしない。ハレとケのメリハリ(=大いなるムダ)が日常現実を生動せしめている如く、恥かく笑いも、遊びも息継ぎ風通しよくイメージ 3する意味でも多いにけっこうなこととして共に愉しもう。
恥は人生にもっとも必要なことと説き、自分自身をアンデパンダン展に出品しダリコポップハプニングなど≪恥をかき続けることで既成概念を壊してきた≫≪アバンギャルドな天然老人≫秋山祐徳太子。恥かいて老いてますます盛んなり。

        右写真→都知事選・選挙ポスター