きょうはお染久松の野崎参り。
野崎小唄(1971)東海林太郎
連休もきょうで終わりということで連れ合いと泣き出しそうな曇天の中、近くの野崎観音へと散歩がてら出かけた。ふたりとも大阪に生まれ育ちながらお参りするのははじめてだ。前まえからこの時期に野崎まいりの行われていることは知ってはいたが、この連休、新聞記事の催し案内につられて一度は・・・とおもい連れもって行ってきた。歌にも唄われ、落語の噺し(いやいや、学のある人には知られたことで、人形浄瑠璃の物語でもある)のお染久松の心中物で馴染みの野崎まいりを知らないままというのもなんだか、といこともあった。ところで≪野崎まいりは、5月(旧暦では4月)にで行われる無縁経法要(日ごろ知らず知らずのうちにお世話になっている有縁無縁すべてのものに感謝のお経)への参詣のことで、江戸時代の寛文~元禄期(1661~1704年)ごろに盛んになった。≫のだそうだ。
野崎参りは 屋形船でまいろ
どこを向いても 菜の花ざかり
粋な日傘にゃ 蝶々もとまる
呼んで見ようか 土手の人
野崎参りは 屋形船でまいろ
お染久松 切ない恋に
残る紅梅 久作屋敷
今も降らすか 春の雨
どこを向いても 菜の花ざかり
粋な日傘にゃ 蝶々もとまる
呼んで見ようか 土手の人
野崎参りは 屋形船でまいろ
お染久松 切ない恋に
残る紅梅 久作屋敷
今も降らすか 春の雨
と歌に唄われている風情なぞ残念ながらこれっぽちもない。ともかく往時を偲ばす屋形船もなければ、菜の花ざかりの川堤をお参りめがけて歩く人の姿もない。肝心のその川が原形とどめていないのだからムリはないが。ま、話しの種の野崎まいりではある。さすがに人出は多く、縁日露店の賑わいは人口に膾炙する(いや信仰篤き?)野崎参りのことはあるもんだと感心した。花御堂のお釈迦様に甘茶をそそぎ、その甘茶をいただいて、歌に唄われ噺に語られるお染久松の比翼塚(油屋の娘と恋仲になった丁稚の久松。けれどその丁稚・久松の養父は嫁に後添いの連れ子であるお光をのぞんでいた。しかもそのお光も久松を好いていたのだった。これが、その恋と義理にからまれたお染と久松の悲しい道行結末をひきよせることになる。・・・)を写真に収め帰途についたのだった。そのお染久松を、わたしは近松門左衛門(承応2年(1653年) - 享保9年11月22日(1725年1月6日))の作とばかりおもっていた、その間違いを今日の野崎参りで知ったのだった。それは近松 半二(ちかまつ はんじ、享保10年(1725年) - 天明3年2月4日(1783年3月6日))作のよし。