坂本龍一『千のナイフ』(1978)。<「エコはファッション」でいい>とのたまう軽さ。
Ryuichi Sakamoto – Grasshoppers:piano: Yuji Takahashi,piano and synths: Ryuichi Sakamoto
つねづね拙ブログでも言っているけれど普段フュージョンや、ボサノバはご遠慮している。多くのファンがいるのでこれ以上は言わないでおこう。背後から石つぶてが飛んでこないともかぎらないだろうから。ということもあり、テクノサウンドも相同だ。「イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽」なる拙ブログ投稿記事に現れているようにエレクトロニクノイズには痺れる感性なのだけれど、テクノポップスはうけつけない。世間はなんでYMOなんだ?といったわけだった。一世を風靡していた社会現象のテクノポップYMOとは一体何なのだというわけで、その一枚看板でもある坂本龍一のテクノサウンドを一度は聴いておこうと、たぶん手にしたのだろう。それが今日登場する『千のナイフ』。1978年に収録リリースされたデビューソロアルバムのよし。レコードの帯には「現在もっとも進んだセッションプレイヤー、アレンジャーとして活躍する鬼才・坂本龍一が、11台のシンセサイザーとコンピューターを駆使して織りなす壮大なリューイチサウンド。今ここにベールをぬぐ。」とある。この70年代当時、機器性能ゆえのエレクトロサウンド実作の労苦がどれほどのものかドシロウトには推し量りかねるけれど、そのサウンド自体たいしたものではございませんとひとまず言っておこうか。これはその機器性能の制限ゆえか、感性ゆえか。たぶんこれ以上のエレクトロニク感性(ノイズサウンドを巧みに使ったロックグループ)の持ち主は今の若いポップ、ロック世代にはゴマンといていることとおもわれる。だいぶ前に≪<晦渋に衒う>坂本龍一、土取利行のデュオパフォーマンス『Disappointment-Hateruma』(1975)≫とタイトルして記事を投稿している。
基本的にこれで尽きるとの思いもあって、それを再度ここにコピーペストして再掲しよう。
基本的にこれで尽きるとの思いもあって、それを再度ここにコピーペストして再掲しよう。
【さすがと言うべきか、人気の程が窺える。いやつねにどうでもいいような物議をかもす言(辞)動ゆえなのか、アルバムを取り上げるに際して坂本龍一のWIKIPEDIAの項を覗いて、その詳細な取扱い(いうまでもなく投稿者はファンなど非専門家なのだろうとおもわれる)には驚いた。ごく大雑把な来歴、たとえば、YMOで一時代を画したこと、芸大大学院出であること、シンガーソングライター・矢野顕子の旦那であること、ハリウッド映画音楽で名声を得ている事、アメリカ9・11テロを契機に「非戦」をとなえたことなど、そうそう、エスタブリッシュメントであるとして武満徹批判のビラを高橋悠治とともに撒いたことなどなどは知ってはいたけれど、それにしてもの扱いの大きさである。それだけ一般的評価、人気度が高いという事なのだろう。もっとも私は彼の音楽をまともに聴いた事はない。少しばかり感性が私の好みとズレテイルといったことがその因であるけれど。現代音楽や、ノイズ、フリージャズなどを主に聴いてきた私にはテクノポップはあまり食指がうごかなかった。フュージョンなどムシズが奔るくらいのものだからむべなるかなである。何でそんなに人気があるの?といったところである。私には解らない人ではある。現官房長官の塩崎某と高校(当時は有名な都立の進学校)の同級生であり、作曲家池辺晋一郎はその高校・大学の先輩でもあったそうである。間違いなくエリートである。しかし少し羽目を外すマセタ、イヤな?アンチであることに拠り所をおく、よくある多感で、そして落ち着きのない、腰の定まらない秀才であったようだ。これは、後の彼の音楽上でのスタイルの変遷を知っての私の勝手な推測ではあるけれど。それに、≪マクロビオティックの実践者としても知られている。以前はベジタリアンであったが、これは「人としての闘争本能がなくなりそうだから」という理由で後に挫折≫(WIKIPEDIA)とある。マクロビオティックなる言葉をここで始めて勉強させてもらったけれど、闘争本能とベジタリアンは結びつくのだろうか。噴飯である。また≪「食堂で一人食べてる人って不愉快」等と発言しランチメイト症候群である事が判明≫(WIKIPEDIA)とある。なんですかこれは。「ランチメイト症候群」なんて精神の括り方があることをはじめって知った。一人で食べようが、友と語らい食べようが、そんなことはどうでもいいことではないか。精神科医の仕事を増やすだけ以上の意味があるのだろうか。なんと数多くいろいろな症候群が定義される社会であり時代なのだろう。病的である。事を犯せば、精神の病にその因を帰す。なんと軽薄な人間観だろう。殺人犯にも(誤ったそれであるとしても判断する能力自体を持つ)人格を認めよといいたくなろうというものである。病人に仕立てられた確信犯が、それは違うとなぜ主張しないのかも不思議である。一事が万事責任能力薄弱の病人の仕業であるとして罪が軽減される現法的処理には、理解しがたい奇怪な人格・人間観があるように私には思える。被害者の立場からすれば、たまったものではなかろう。ドストエフスキーの『罪と罰』のラスコリーニコフの救いなき確信犯罪、罪の自覚、その過誤に対する懺悔と神への祈りなどここでは何の教訓、救いともならないではないか。過てる<理性>的判断の結果であるとすることこそが罪を犯した人間の<人格>を認めることになる。その人格においてこそ悔い改めることが救いとなるのだ。精神の病(症候群)にその因を帰すなど、<人格>を有する罪びとの<人間性>を剥奪するものとしか私には思えない。人格であればこそ神との対話も悔悟の道行きともなるのだ。何の話をしているのだろう。ようするに≪「食堂で一人食べてる人って不愉快」等と発言≫。どうでもいいことではないか。ま、トリビアルなことにこだわるのが芸術家の芸術家たるところかもしれないけれど。建築家ミース・ファン・デル・ローエの有名な言葉に「神は細部に宿る」ということばもあることだし。それにしても、今回の紹介する坂本龍一と土取利行のデュオによるアルバム『Disappointment-Hateruma』(1975)のアルバムに記されている晦渋きわまる断章の衒いこそは、彼の何たるかを指し示すものでもあるだろう。たぶん本人にも了解しがたい断章であることだろう。韜晦に衒うということだ。しかし、B面に収められているパフォーマンスはよくできている。芸大で、その業績をもってして惜しまれつつ世を去った民族音楽学者小泉文夫の講義をうけている感性の傾きは、ここにうかがい知ることが出来る。エレクトロニクノイズと民(俗)族的音楽要素の程よい融合がデュオパフォーマンスで試みられている。しかしA面は<韜晦に衒う>そのもので私には?である。最後に矢野顕子とはつい最近別れており、種付けでおさかんなこともはじめて知った。私生活ゆえどうでもいいことだけれど。】
上記に尽きるとはいえ、レコード棚からどうして引っ張り出し投稿する気になったのか。所蔵レコードの埃まみれの棚ざらしではなく成仏を願うということもあるけれど、過日(2009年4月25日、土曜の朝日新聞「be on Saturday」)、以下のタイトルで坂本龍一の特集記事があった。
「エコはファッション」でいい (坂本龍一)たぶんこの人はこれに尽きるお人のようだ。
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