アントン・ブルックナー『交響曲第9番』(1894)。『浄夜(浄められた夜) op.4』(1899)。を再度聴く。濃厚豊麗な響きを前に圧倒され、たじろぐ。
今読書中の、といってもあきれるほどの細切れ遅読でのそれなのだけれど、そこで、【例えば、日本の音楽というのは、ヨーロッパの音楽と違ってハーモニーの構造がないわけですから、同じメロディーにしてもヨーロッパの音楽はまっすぐな音でメロディーを作っていくわけですが、日本の音楽にはハーモニーの構造の音楽的なインフォメーションがないかわりに別の重要な音楽的インフォメーションがあって、それは音が曲がることであるとか、音色が一音の中で変わっていくこととか――これは尺八の音を思い起こして頂くと分かると思いますが――があります。】(「湯浅譲二の世界」・芸術現代社)とのことばがあった。≪日本の音楽にはハーモニーの構造の音楽的なインフォメーションがない≫・・・。そうか!それで後期ロマン派にて頂点を極めたあの部厚い豊麗濃密なオーケストレイションに我々は縁がないのか、達し得ないのかと合点したのだった。また【・・・その頃は、「実験工房」の頃でしたから、西洋的な構造と日本的な構造の相違、時間の問題とか空間の問題とかがあって、例えばワーグナーのような音楽は日本人には絶対書けないよな、ああいうのを書いたら嘘だよな、などと武満(徹)としょっちゅう話をしていたわけですよ。・・・】(同上書)というのもあった。日本を代表するワールドクラスの作曲家が斯く言う言葉を俟つまでもなく、素朴に、あのような濃厚豊麗な響きを前に圧倒され、たじろぐのはドシロウトの一クラシックファンでしかない私だけではないはずだ。≪ワーグナーのような音楽は日本人には絶対書けないよな、ああいうのを書いたら嘘だよな≫。頷きつつも、ただただこの圧倒する響き。というわけで、先の読書とFMラジオに触発されてのこともあるけれど、すでに拙ブログへ≪アントン・ブルックナー『交響曲第9番』。壮にして大なるかな、ああこの甘美。陶酔する斯くなる精神。だが私には別世界であるようだ。≫と≪後期ロマン派の香り濃厚、豊麗なオーケストレーション『浄夜(浄められた夜) op.4』(1899)と精神の端然を聞く無調時代の傑作『管弦楽のための変奏曲 op.31』(1926-1928)。≫と印象して投稿しているアルバムを再度図書館から借り受けて鑑賞した。