yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

松岡正剛『連塾・方法日本・Ⅰ<神仏たちの秘密>』。主題としての「日本」ではなく(情報編集)の「方法(としての)日本」。

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ネット図書館で借りて、やっとこさ(延長貸し出しのうえ、ひと月かかって!)読み終えました。読み終わったころには、頭はなんだったかを忘れるようなトンデモナイ読書です。ということでの投稿なのだけれど・・・。まあ、ここ最近の「ニンポン」している、いつもの松岡節(ぶし)を堪能しました。と・・・、私が如きザル頭にはこの程度の感想しか言葉が出て来ませんが。ところで、この松岡正剛にはごく初期から目を通し、著者のキー概念には少なからずの影響(拙音楽ブログはそうです)を受けてきた者であります。

【・・・たんに、「日本」を議論したいのではなく、あくまで「方法日本」を歴史をまたいで相関的に、重畳的につなげたかったからです。つまりは、日本の本来と将来をつなげたかったからです。そこで私は、さまざまな日本的主題がもつ領域的帰属性からできるだけ離れて、その氏と育ちの関係を別の布地で縫製するような、そういうスタイルをつくりあげる・・・】(「連塾・方法日本・Ⅰ」あとがきより)

つまりは、主題としての「日本」ではなく情報編集の「方法(としての)日本」。

【日本には「アワセ。ソロイ・キソイ」という方法があります。「アワセ」(合わせ)は二つのものを合わせること、「ソロイ」(揃い)は合わせたものを揃えていくことをあらわします。さらにそこに比較がおこると「キソイ」(競い)になります。日本はこのアワセ・ソロイ・キソイをすこぶる重視してきました。すでに『古事記』において春と秋をくらべる歌があり、王朝時代になると「歌合せ」や「貝合」や「前栽合」がさかんになり、貴族たちが左右に分かれて歌を詠みあって、どちらがすぐれているかを競いました。このように、何かと何かを合わせることから、そこにたちまちキソイがおこる。これが日本の方法の秘密なんですね。】(同上)

【日本の社会や文化の奥にひそんでいるのはまさにこのような「矛盾と統合」なんです。「葛藤の出会い」なんです。和と荒、正と負、陰と陽、凸と凹、表と裏、「みやび」と「ひなび」の同居です。このような矛盾しているものが合わさっていく、アワセになっていく。そうやって自己同一をゆさぶっていくのが日本流なんです。】(同上)

茶道、華道、武道、○×道・・・。多様で一途な、極めていく文化。

まあ、かの余人の追随ゆるさぬ驚くべき博覧強記にして云えることで・・・。各領域事象を横断的に、知の世界を編み上げて「方法(としての)日本」をウンヌンできるのも、この才ゆえであって・・・。その「編集知」の開陳はおもしろく刺激的な読み物ではあります。

神仏の移りゆき、歴史の編み方その動向に「日本の面影」の源流を読み解くとある。それらに援用、ついやす知の膨大な集積世界にはただただ畏れ入るばかりだけれど、「・・・王朝文化が、日本人の無常観の大半が・・・」と、王朝文化のつくりあげたものが即日本人の普遍な感性として同列にひと括りにされてしまうのも、いささか抵抗があり(もっともこのようなことは論外のことと繰り込まれているのだろうけれど)チョッピリ眉に唾と思わないでもないのだが。

なんの実証的根拠もないのだけれど、「ニッポン」として語られる(貴族武家から下流し定着する)多くは江戸に入ってからのものが殆んどのようだし・・・明治からというとんでもない伝統(文化)への思い込みのもあるそうで。最近「桂離宮」や「伊勢神宮」などへの思い込みに楔を打ち込むような「ニッポン」知への揺さぶりもあると聞く・・・。