yuki-midorinomoriの日記

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内田樹『日本辺境論』。どのように見られているかつねに気になりキョロキョロしているわが辺境人。

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海外がどのように日本を見ているかつねに気になり、キョロキョロしている。

『日本辺境論』の著者・内田樹いわく
≪ここではないどこか、外部のどこかに、世界の中心たる「絶対的価値体」がある。それにどうすれば近づけるか、どうすれば遠のくのか、専らその距離の意識に基づいて思考と行動が決定されている。そのような人間のことを私は本書ではこれ以後「辺境人」と呼ぼう・・・≫と定義づけている。

わがニッポンが地政学的に辺境(世界地図の中の日本を見れば誰しもが思うことで、大陸の交易路・シルクロードのどん詰まり、その果て。)と位置づけられ(≪日本人固有の思考や行動はその辺境性によって説明できるというのが本書で私が説くところであります。≫しかし著者も言っている如く、≪・・・もちろん、日本の周縁性や辺境性や後進性によって日本文化の特殊性を語られた方はこれまでにたくさんおられました。ですから、最初にお断りしておきますけれど、本書のコンテンツにはあまり(というかほとんど)新味がありません(「辺境人の性格論」は丸山真男からの, 「辺境人の時間論」は沢庵禅師からの、「辺境人の言語論」は養老孟司先生からの受け売りです。)・・・≫といった認識のもとに≪本書に含まれている知見のほとんどは先賢たちがもう書いていることです。日本および日本人について、私たちが知っておくべきたいせつなことは、すでに論じ尽くされており、何をなすべきかについても、もう主立った知見は出尽くしている≫。と、ことほど左様に、本書には≪ほとんど創見といえるものは含まれていません。≫と断っている。どうしてどうして、そのようなことはもちろんないのだけれど。謙遜です。≪主立った知見≫などへの、その整除加味する思惟能力、切れ味は著者の明晰を証明するものであり、その背後にはフランス現代思想の研究(レヴィナスラカン)のあることを示している。本当は、その思想の原基、たとえば、「起源からの遅れ」、存在論・・・

【自分の存在の起源について人間は語ることができません。空間がどこから始まり、終わるのか、時間がどこで始まり、終わるのか。私たちがその中で生き死にしている制度は、言語も、親族も、交換も、貨幣も、欲望も、その起源を私たちは知りません。私たちはすでにルールが決められ、すでにゲームの始まっている競技場に、後から、プレイヤーとして加わっています。私たちはそのゲームのルールを、ゲームをすることを通じて学ぶしかない。ゲームのルールがわかるまで忍耐づよく待つしかない。そういう仕方で人間はこの世界にかかわっている。それが人間は本態的にその世界に対して遅れているということです。

それが「ヨブ記」の、広くはユダヤ教の教えです。ふつうの欧米の人はこういう考え方をしません。過ちを犯したので処罰され、善行をなしたので報酬を受けるというのは合理的である。けれども、処罰と報酬の規準が開示されておらず、下された処罰や報酬の規準は人知を超えているというような物語をうまく呑み込むことができない。どうして、私たちが「世界に対して遅れている」ということから出発しなければならぬのか、と彼らは反問するでしょう。まず、われわれが「世界はかくあるべき」という条件を決めるところから始めるべきではないのか、と。不思議なことに、ヨーロッパ人には呑み込みにくいらしいこういう考え方が私たち日本人には意外に腑に落ちる。

ゲームはもう始まっていて、私たちはそこに後からむりやり参加させられた。そのルールは私たちが制定したものではない。でも、それを学ぶしかない。そのルールや、そのルールに基づく勝敗の適否については一勝ったものが正しいとか、負けたものこそ無垢の被害者だとかいう一包括的力判断は保留しなけれぱならない。なにしろこれが何のゲームかさえ私たちにはよくわかっていないのだから。日本人はこういう考え方にあまり抵抗がない。現実にそうだから。それが私たちの実感だから。ゲームに遅れて参加してきたので、どうしてこんなゲームをしなくちゃいけカいのか、何のための、何を選別し、何を実現するためのゲームなのか、どうもいまひとつ意味がわからないのだけれど、とにかくやるしかない。

これが近代化以降の日本人の基本的なマインドです。そして、このマインドは、ある部分までは近代史の状況的与件に強いられたものですけれど、日本列島住民が古代からゆっくりと形成してきた心性・霊性にも根の先端が届いている。私はそうではないかと思います。

辺境人にとって「起源からの遅れ」はその本態です。日本人の国民性格には深々と「遅れ」の刻印が捺されています。それが悪い出方をすれば、「虎の威を借る狐」になる。でも、よい出方をすることもある。「起源からの遅れ」という構造特性が「よい出方」をすれぱ、どうなるのか。あるいはどうすれば「よい出方」をするのか。】(同書より)

このような存在論・・・「起源からの遅れ」(贈与、交換概念などの原基。人間の本質的関係性、贈与と負債(負い目)。この贈与と負債(負い目)は人間存在、その社会の何を指し示すか。罪意識の負い目、隠された始原と絶対的な遅れの意識はどこから来るのか。)・・・こそが私には、興味のあることで、べつにニッポン人の辺境性などには、さほど感じることはないのだけれど。ようするに、それら辺境性を自覚して・・・。で、めまぐるしく変転する世界動向、それら激変にどう現実的に対応すりゃいいのかが、いっこうにでてこないのには変わりがない。つぎから次へと否応なしに問題は押し寄せてくる。