yuki-midorinomoriの日記

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柄谷行人著『世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて』(岩波新書)。世界的諸問題、アポリアへの漸次解決の方途とは。

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「国家は他の国家に対して国家なのだ。・・・国家をその内部だけから見ることは、まちがいである。」柄谷行人著『世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて』

柄谷 行人(からたに こうじん、1941 - )著『世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて』(岩波新書)。定価740円の新書ぐらい身銭きって買い、読書すりゃいいのにと思うのだけれど、ネット図書館を利用し借受て読んだ。3年余月前に≪きのうの「良寛」の吉本隆明に「知の三馬鹿」のひとりと罵倒名指しを受けた柄谷行人の『トランスクリティーク』(2001)。≫を投稿している。それ以来の久々の新書ながらの骨のある読書体験をさせてもらった。本のタイトルの『世界共和国へ』向けての現実的で漸次実現可能な歩みを提唱するまでに角がとれたのかと思いつつ読み進んだ。ソ連崩壊による東西冷戦の終結。人類平和の希求の曙であったはずの社会主義政治経済の完全な現実的破綻。社会主義とは到底言えぬ共産党一党独裁の<国家資本主義>政治経済体制で昇竜の勢いの、どうにも理解し難い社会主義?中国の台頭。世界いたるところで止まぬ戦争、テロ。グローバル資本主義経済のもたらす対外・対内経済格差の激甚と過剰資本の生産消費がもたらす環境破壊・・・。まさしく人類は破滅への道を歩んでいるとしか思えない。このような一般共通認識に解決の糸口をもたらす思想的理路はあるのか?。資本と国家への新たな根本認識の転換なくしては先のような諸問題の解決の端緒すら見えてこないのではないか・・・。こうした切実な問題への思想的提言がなされている啓蒙の書といえる。
従来のマルクスの生産概念による世界了解から交換概念、消費を軸としての批判的な検討。交換様式〔互酬(贈与と返礼)、再分配(略取と再分配)、商品交換(貨幣と商品)、そしてXとしての第4の交換〕のあり方として社会、歴史を、また商品、資本、国家を読み解いていく。まさに斬新の歴史、社会読解の読書だった。

さて、つぎは、これらを本格展開した大著「世界史の構造」(岩波書店刊)へと挑戦だ。いつになるか分からないけれど・・・。

【・・・ともかく、カール・マルクスの「資本論」での価値形態論の読解展開を共同体・国家間の<交換><差異>、その世界普遍<交換体系><差異>へと反照観想し、またソシュール(「言語には差異しかない、言語は価値である」)などの言語論までを包摂しての論理展開(意味論、価値論)はスリリングであったことだけが印象に残っている。「人間は社会的諸関係の総体である」(「ドイツ・イデオロギー」)<価値は実体ではなく、関係のうちに存在する。>≪「生産物は労働なしにありえない。ゆえに、古典経済学は労働を価値実体とする。しかし、生産物を価値たらしめるのは、価値形態、いいかえれば、商品の関係体系である。物や労働がそれ自体で或るものを価値たらしめるのではない。その逆に、物や労働は価値形態によってはじめて経済的な対象となる。古典派は経験的な価格を超えて存在する労働価値を考え、新古典派はそれを否定して経験的な価格の次元にとどまろうとした。彼らがいずれも見ないのは、価格も労働価値も、価値形態(関係体系)の派生態だということである。」≫(「トランスクリティーク」343P)<価値形態(関係体系)論>の本質的な機軸となる概念は、この吉本謂う「知の三馬鹿」の一人、柄谷行人の思想の基底にある汲めども尽きぬ思想の源泉(彼の出世作マルクス、その可能性の中心』もこのマルクスの価値形態論からする実体論批判だったと記憶するが)であり、いまは亡き新左翼の哲学的バックボーンでもあった廣松 渉(ひろまつ わたる、1933 - 1994)の物象化論から壮大な認識・存在論哲学、<共同主観的存在>四肢構造論へと歩をすすめる導きの糸ともなるキー概念だっただろう。そうした意味でひじょうに興味尽きない<価値形態(関係体系)論>であり、分からないながらもパトス溢れる著者の思考実践には感嘆の書であった。】(上記拙投稿記事より再掲)

<価値形態(関係体系)論>から、<社会、歴史、商品、資本、国家>の生産様式から交換様式〔互酬(贈与と返礼)、再分配(略取と再分配)、商品交換(貨幣と商品)、そしてXとしての第4の交換〕への読解概念の転換。これが鍵なのだろう。