yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

吉田秀和著「一枚のレコード」(中公文庫)。すなおに自分の感性を信じて音楽を聴こう。

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Janine Jansen & Julian Rachlin playing S.Concertante K364 - I Allegro maestoso

              

仕事終えての帰り、車中のラジオから流れていたバイオリンコンチェルト。自動車のラジオというチープなリスニング環境を考慮したうえで、いうべきことと思われるけれど、なんとも詰めの甘いヴァイオリンだなーと思って聴いていたのだったが、演奏終わるやいなやのブラヴォーの大歓声、賞賛なりやまずではないか。ホントかよと思わずつぶやいたのだった。万障繰り合わせ、大枚はたいて会場へ出向いたからには、感動せずば帳尻、算盤が合わないとばかりの、かくなるブラヴォーも無理もないのかなあと思いつつも、それにしてもなあ・・・。真底からのブラヴォーか?と思わないでおれない内容だった(と、外野席お気楽ラジオ鑑賞者の私は思ったのだけれど、いやひょっとして自動車ラジオのチープな再生ゆえか???、それともわたしの粗雑な耳ゆえか、それにしても・・・)で、帰宅後ネットで調べたら放送内容は以下だった。


     【 N響演奏会 -第1694回NHK交響楽団定期公演-

      「バイオリン協奏曲 ニ長調 作品61」   ベートーベン作曲
                            (43分00秒)
                   (バイオリン)ジュリアン・ラクリン

                        (管弦楽)NHK交響楽団
                       (指揮)チョン・ミョンフン

      ~NHKホールから中継~ 】


当のヴァイオリンはジュリアン・ラクリン(Julian Rachlin, 1974 - )とあった。(はじめて聞くヴァイオリニストだ。斯くほどの浅学情報音痴ゆえ、以下話半分に!)10才にして≪神童として最初の公開演奏を開始・・・リッカルド・ムーティの指揮により、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と共演した最年少ソリストの記録を叩き出す・・・≫(WIKI)と言う才能ではないか。だとすれば、あの日の出来はいいものではなかったのか。それにしてもだ。あの割れんばかりの喝采、ブラヴォーは何なのか?わたしには、その日の演奏に対しての賞賛ではなく、世評喧伝されている名声への盲目的迎合としか思えなかったのだが。ひょっとして招聘側のサクラか?と毒づいてみたくなる騒々しさだった。おまけに、3ヶ月ほど前≪NHK音楽祭2010。車中で、パーヴォ・ヤルヴィと(バイオリン)ジャニーヌ・ヤンセンのブラームス「バイオリン協奏曲」に聴き惚れる。≫と投稿した別嬪さんのジャニーヌ・ヤンセンと≪共演するうち、恋仲になったと伝えられる。≫(WIKI)とあるではないか。ナヌ~!。


ところで、以下引用したのは、たまたま手にしたホコリまみれの文庫本、吉田秀和著「一枚のレコード」(中公文庫)の、これまた偶々開いたページに目が留まったからに過ぎないのだけれど・・・。 


【ズーピン.メータは、先年ベルリンできいた。彼が常任指揮者をつとめているロス・アンジェルス交響楽団をひきいて、一九六七年秋のベルリン芸術祭に参加した時にである。しかし、その時はプログラムに、のせたリストの第一協奏曲の独奏者として同行してきたアンドレ・ワッツがあまりにも鮮かな演奏をしたので、管弦楽と指揮者はその後ろにかすんでしまった恰好だった。それにこの演奏はワッツにとってのベルリンヘのデピューだったのだが、当夜の聴衆の熱狂的な喝采もさることながら、そのあとの評判も、彼のことで持ちきりだった。私も、その例外ではない。
それにしても、同じ演奏会でも、外国の音楽都市できく時と、たとえぱ東京できく時の違いの一つは、こういう点にもある。東京のは、公衆もそうだが、そうして特に批評家が――せっかく新しい体験をしても、なんというか、その反応を示す上で概して中立的で控え目であり、何か〈決定的な出来事〉としての印象を与えるような雰囲気に乏しい。非常な名演奏にぶつかったあとでも、休憩でロビーに出て、顔見知りと向き合ってニヤニヤしているだけだったり、口をひらくと、天気の話になったり、他人の噂になったりしがちだ。
最近の例でいえば、カール・リヒターミュンヒェン・バッハ管弦楽団や合唱団が来て、バッハの大作――というより、私に言わせれば、ヨーロッバ芸術の生んだ最高に属する傑作である《口短調、ミサ》《マタイ受難楽》《ヨハネ受難楽》といった曲で、あれほどすごい演奏をやった時でも、これが聴衆の音楽生活、音楽体験の中での一つの決定的な出来事となる性質のものだというにしては、反応の中に何かが欠けているように、私には思われて仕方がなかった。これは日本人が控え目で熱狂を。あらわに示したがらないとかなんとかいうのとは、別の話だと思う。日本人は、たとえば、人に好意を示す時とか、人から好意をうけた時、心から感謝している時とか、それを表現するのに非常に内輪にしかやりたがらないなどというけれども、人に失礼をしたり、冷たい気持を示したりする時は、びっくりするほど厳しく、露骨にやってのけて、平然としている。そういう時は、決して、内輪で控え目どころではないのである。
もっとも、そうでない人も、いることはいる。この間も、《ヨハネ受難楽》をききおえて出てくると、戸口でバッタリある知人に会ったのたが、その人は〈胸がいっぱいで、なんにもお話できませんから、これで失礼します〉といって、挨拶もそこそこに帰っていった。また、フリードリヒ・グルダが東京の演奏会で、ぺートーヴェンやシューベルトの曲をひいて、これまでの既成概念をつき崩すような、それこそすごい演奏をやった時にも、私はある人に会い、そのまま二人で上野のあの坂を広小路の方に向って降りていったのだが、この人の心の中で何が起ったかは、言葉が少なくても、私には十分わかった。私の気持も、彼に伝わっただろうと信じる。そういうことも、たしかにある。だから、私は、〈日本人はみんな……〉などという言い方はすぺきではなかった。
しかし、そうはいっても、全体の雰囲気となると、何かが、西洋と決定的に違っているのではないか?〈グルダをきいたよ〉〈どうだった?〉〈あの男はどうしてあんなに行儀が悪いんだい?〉などという問答をする羽目になると、私は――まあ、やめておこう。
とにかく、どういうわけか、この国では演奏会の雰囲気にも、批評にも、あるものの〈出現〉の意義を一つの決定的な評価に定着させようという姿勢の何かが欠けている。〈良いけど悪い〉。〈すごいけど若い〉。逆櫓の戦法というか、そこには、ぬきさしならぬ決定的評価を下すのを躊躇しているかのような気配がある。何かがまだ熟していないのか、何に対するはじらいか?それとも?……こんなことを書いていると、また無駄話を、と叱られる。】(上記書・「精神化された官能美」より)


すなおに自分の感性を信じて音楽を聴こう。