yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

『磯江 毅=グスタヴォ・イソエ展』。宗教的とすらいえる覚知になるハイパーリアリズム。見えるまで見る。その時はじめて、<もの>は、<存在>は、なにほどかを告げ知らせる。

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サルバドール・ダリの「パン籠」の超細密な写実画を、画集でだけれど見て驚き、「写実こそが超現実なのだ」【≪「私の目的は、時代を経て失われた技術を取り戻すこと、爆発前の物体の不動の状態に到達することである」。(ダリ)≫】というダリの名句に妙に感じ入った記憶がある。

イメージ 2いま、奈良県立美術館にて開催されている『磯江 毅(いそえ つよし、1954 - 2007)=グスタヴォ・イソエ展』を連れ合いとともに観にいってきた。奈良公園の秋めく風情をも、との思いもあったのだけれど、画を観終わって館を出てしばらくのうちに、あいにくポツリポツリと小雨模様となり、錦秋の彩り愛でる散策のゆとりもなく帰途となった。会場の奈良県立美術館までは車で20分ていど。出不精怠け者には出向くにちょうどいい距離だ。ふた月まえの≪『富本憲吉~模様の世界~展』鄙びた渋さとモダンな模様の合一、バランス。堪能してきました。≫とおなじく、新聞販売店の購読感謝企画のひとつのイメージ 5「磯江 毅=グスタヴォ・イソエ特別展ご招待」に応募して(人気がないのか、その存在があまり知られていないのかわからないが)送られてきたチケットを利用しての絵画鑑賞。(けれど、けっこうの入場者でにぎわっていた。新聞等での催し紹介アピールも奏効していたのかもしれない)

イメージ 3まずひと言、よかったです。凄いものです(ただ、画のもつ圧倒的な質感とリアリティは写真画像では到底!味わえない。このことは言っておかなくてはならないだろう。ぜひ、機会を得て目にしていただきたいものだ)。この細密。写真以上の<もの>のリアリティ。写真以上・・・。まさに冒頭のダリのことば「写実こそが超現実なのだ」の真意が想起される。対象に肉薄するなんぞのことばでは言い尽くされない狂気とすらいえる細密へのこだわり。存在の神秘、在ることの不思議。存在することが奇蹟という宗教的とすらいえる覚知になるハイパーリアリズム。       (上)「鰯」2007(下)「19世紀タラベラ焼と葡萄」2004

ものの摂理の感得として、斯く写実はなければならない。

見えるまで見る。

如何に生きるかなどといった、処世人生論ではとうてい画くこと叶わぬ存在論としての芸術といえるのかも。俗にまみれた如何に生きるかなど超越した地平に佇む静謐の画境域。
感嘆の写実という、驚くべき細密の向こうからやってくる哲学はシンプルだ。

見えるまで見る。

<物は見ようとしたときにはじめてみえてくる>(磯江 毅)

その時はじめて、<もの>は、<存在>は、なにほどかを告げ知らせる。

過日、投稿した画家に、以下のことばがあった。

    「在るに非(あら)ず、また在らずに非(あら)ざるなり」

    「写実の極致、やるせない人間の息づき――それを慈悲という」

<在る>ものは時間においてある。<無>をそれは内包する。

「存在の虚無性とは、森羅万象が<在ること>に、なにか必然的な存在理由も、しかるべき起源や目的も、原理的に欠けているということである。それはいいかえれば、〈在る〉とはつねに、「在る必然性などさらさらないのに在る」ということであり、「無くても論理的にはすこしもふしぎではないのに在る」ということである。つまり、非在こそ論理的にはむしろオリジナル、無くてあたりまえで自明で必然ですらある、にもかかわらず、現に人は生きて在り、のみからず万物が在る、ということである。
非在こそ当然であるという論理的必然性。にもかかわらず、現になにかが〈在る〉という存在のまぎれもない事実性。この論理と事実とがつきあわされるとき、なにかが〈在り〉、この世が〈在る〉ということは、極度に「非-自明」で「稀-有」なできごとだという思いが、静かに灸りだされてこないだろうか。極度に非自明で稀有なことを、神秘的あるいは不思議(mysterieux)と形容することはゆるされよう。ならば、なにかが存在するということは、たったそれだけのことで無条件に、神秘的な出来事にほかなるまい。しかも、万物はいずれ非在化することを加味してみれば〔厳密にいえば一瞬一瞬、非在化している。後述〕、在ることの不思議(存在神秘mystere detre)の思いは、いっそう募るはずである。
もしそうであれば、存在の虚無性あるいは儚さとは、存在神秘の逆証であり、その別名にほかならぬことになろう。虚無で儚い生起であればこそ、存在は神秘である。」(古東哲明「<在る>ことの不思議」

http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/53491269.html 岸田劉生「壷の上に林檎が載って在る」(1916)。不可思議な驚くべきリアリズム。



「新聞紙の上の裸婦」1993-94イメージ 4

「裸婦(シーツの上の裸婦)」1983イメージ 6