近藤 譲 『時の形』(1981)。この叙情・・・。
時の形
「・・・先ず「音楽」というものを単なる「音」から区別し、その「音」と「音楽」との存在論的な差異を観察することによって、「音」からの「音楽」の成立を考える。つまり、、音は音楽の前提だが、音そのものは音でしかない――すなわち、音楽ではない――というのが、私の立場である。音が音楽になるためには、なんらかの仕方で音が組織化されなければならない。そして、どのような音がどう組織化され得るかを考察することから作曲が始まる。言い換えれば、音を音楽化することが作曲という行為だ、ということである。」(近藤譲『音を投げる』より)
ひじょうに意識的な現代音楽の作曲家・近藤 譲(こんどう じょう、1947 - )。
きょう投稿の《時の形》(1981)をラジオで聴いた(《時の形》, NHK・FM放送(東京)1981)時は、その叙情的な響きに驚いたものだった。これが近藤譲?!・・・だった。
近藤 譲関連、投稿記事――
http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/60347236.html 近藤譲「<音楽>という謎」(春秋社)。何故いままた、価値についての倫理的な問いとして「音楽とはなにか?」と倦むことなく堂々めぐりのごとく問い直さなくてはならないのか?。
http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/60261600.html 近藤譲『音を投げる』(春秋社)。ジョン・ケージの投げかけた音楽上の革命的コンセプト(偶然性、人間理性からの音それ自体の解放)への真摯な思索的検討、いわば根源的思考。
http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/53086360.html 近藤譲『忍冬Hunisuccle』(1994)。しじまに撃ちこまれる楽音の弱音から強音へのクレッシェンド。静謐のうちに佇む抒情と簡潔、その余韻。「線の音楽」の豊穣を聴く。