『七人の侍~早坂文雄の芸術』 。この民族楽派・早坂文雄には、媚がない。大衆への平俗なおもねり、へつらいがない。ひたすらな矜持があるのみ。民族の心意気。漲る音楽精神の充溢。
原太郎 僕の印象では、彼は或るつくりあげられた境地にはまりこんでゐて、本質的には何の新たな苦心もせず、切磋琢磨もなく、至極イーヂーに呑気にやってゐるのではあるまいかといふ気がする。
山根銀二 僕は発明のない人だと思ふ。世評とは反対の印象をうけた。かつて小品を聴いたが此の人につてはまだよくつかめないものが残ってゐる。
原 作品の意図は単純で判りにくいと云ふ様なものでないだろう。むしろ硝子の様に透明で判りすぎる位のものだと思ふが、何時まで聴いて居ても新しい発展がない。
池内友次郎 全体としての感じがつかみにくかった。
山根 荒っぽい印象、イーヂーといふのか、今夜の作品の中で一番きめが荒い。尾崎宗吉の初期の作品の様に発芽力がない。もう一つは舞曲としての性格がほしいと思ふ。
「音楽評論6月号・ワインガルトナー賞入賞作品を語る」(「黒澤明と早坂文雄」西村雄一郎、より)
山根銀二 僕は発明のない人だと思ふ。世評とは反対の印象をうけた。かつて小品を聴いたが此の人につてはまだよくつかめないものが残ってゐる。
原 作品の意図は単純で判りにくいと云ふ様なものでないだろう。むしろ硝子の様に透明で判りすぎる位のものだと思ふが、何時まで聴いて居ても新しい発展がない。
池内友次郎 全体としての感じがつかみにくかった。
山根 荒っぽい印象、イーヂーといふのか、今夜の作品の中で一番きめが荒い。尾崎宗吉の初期の作品の様に発芽力がない。もう一つは舞曲としての性格がほしいと思ふ。
「音楽評論6月号・ワインガルトナー賞入賞作品を語る」(「黒澤明と早坂文雄」西村雄一郎、より)
「西洋音楽に対抗できる東洋音楽の新しい様式が考えられねばならない。それは最終的には汎東洋主義の音楽に結実すべきものだが、そのためのステップとして、自分はまず、日本人として、20世紀の音楽様式と日本的な特性とを結合させた、新しい音楽を作りたい。日本的な特性とは、単純性、無限性、非合理性、平面性、植物的感性の5点に集約できる。その5点は、西洋的な特性として想定される、複雑性、完結性、合理性、立体性、動物的感性に、それぞれ対立する。たとえば、ヨーロッパのものは、非常にエネルギッシュでぐんぐん来る。そういうものは日本人の感性では受け付けられぬ。建築でも、向こうは積み上げるが、こちらは、数寄屋建築でも、面と面との平面的な組み合わせだ。こうした美意識を、和声構成の仕方、リズムの切り方、声部の組み合わせ方、メロディーのこしらえ方、全体の持って行き方……、すべてに反映させる音楽を書かねばならぬ。」 「西洋文化が有なら、東洋文化は無だ。自分の音楽の窮極は、その無を表現することだ。それは、ヒューマニズムやリアリティーとは関係ない、非常に抽象的で形而上的なものだ。その表現は、どうしても無調になる。無調と言っても、音を選択する場合、ヨーロッパ的に12音・セリーで、理屈でやっては駄目だ。音の選択の基本は、東洋的感性に立つ判断力を基準にせねばならない。これはもう理屈ではない。自分自身が東洋的感性そのものになりきらなければ作品は書けない。」 『音楽芸術』1954年11月号(同梱解説より)
もう6年以上も経つのだ。
【 早坂文雄(1914-1955)。斯くも苛烈な人生であった。その死の覚悟が響く『ユーカラ』に武満徹は号泣した。師、清瀬保二のもとにあったこの二人、病を得た独学向上の同志、いや彼はもう一人の師であり兄のようでもあった。
父とは生き別れ、母とは死別、残された妹、弟の面倒見る。進学断念
1933年(19歳)卒後、生活費を稼ぐ為、クリーニング店白洋舎に就職。御用聞き先の家庭にピアノがあると、あがり込んで弾かせてもらうので、店の主人から、楽器店にでも就職しろと、まもなく解雇される。
1934年(20歳)再就職先の北海石版所が破産・解散した為失職。・・・夏に同所が再建されて復職。しかし、今度は音楽活動にばかり力を入れて、仕事をなおざりにすると解職される。
もちろんこのように辛いばかりでは人間生きてはいけない。艱難実り数々の賞賛栄誉(毎日映画音楽賞第1回<1946>より4回まで連続して受賞など)に浴しているのは云うまでも無い。才人ゆえの凄まじいばかりの辛苦、一念には圧倒される。凡人なら節を曲げる。
≪早坂は30代後半から汎東洋主義(パンエイシャニズム)を標榜して西洋音楽との訣別を宣言し、最後の最後に『ユーカラ』を完成させた。・・・・『ユーカラ』を聞いた武満徹は「音楽を聴いて、あれほど涙が出て感動したことはなかった」と言った。≫(松岡正剛・千夜千冊「黒澤明と早坂文雄」)もちろんここには、若き日々の交流から来る思いいれも多少その涙を募らせもしたことだろうけれど。
画像:早坂文雄と黒澤明→
画像:早坂文雄と黒澤明→
早坂文雄の惜しまれる死に、自らの歴史的な記念碑作品「涅槃」を捧げた黛敏郎は斯く1958年初演の際のプログラムに記した。≪つい最近のことであるが、友人の作曲家武満徹君から、先年亡くなられた早坂文雄氏が死の直前、この曲と全く同じ題名の交響曲「涅槃」という作品を構想中で、遂に一音符も書き遺されはしなかったが、スコアの表紙だけを書かれていたということを聞かされた。全く偶然の一致ではあるが、私としては不思議な因縁を感じさせられる。よって、私はこの拙作を、尊敬する早坂文雄氏の霊に捧げるものである・・≫。 】
この民族楽派・早坂文雄には、媚がない。大衆への平俗なおもねり、へつらいがない。ひたすらな矜持があるのみ。
西欧音楽への敬意崇敬と、民族の心意気。漲る音楽精神の充溢。
フジヤマ、芸者よろしくの、こんなのが日本かよと気恥ずかしくもある安易な、お囃子や民謡、旋律に無媒介直接的によりかかるのではなく、ニッポンを特殊普遍として剛毅対峙する美学を果敢せんとした音楽精神は、きょう投稿するアルバム『七人の侍~早坂文雄の芸術』で聴くことができる。
同時代のなか、抜きん出た作曲家の一人といえるだろう。
あまりにも惜しい、41才という早過ぎる死だった。
1. 「七人の侍」~侍のテーマ (1954)
2. 同~間奏曲
3. 「羅生門」(組曲版全曲) (1950)
4. 古代の舞曲 (1937)
5. 序曲ニ調 (1939)
6. 交響管弦楽のための変容 (1953)
2. 同~間奏曲
3. 「羅生門」(組曲版全曲) (1950)
4. 古代の舞曲 (1937)
5. 序曲ニ調 (1939)
6. 交響管弦楽のための変容 (1953)