yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

ヒンデミットの『ヴィオラと管弦楽のための全作品集』。「デア・シュヴァーネンドレーア(白鳥を焼く男)、<ヴィオラと小管弦楽のための古い民謡による独奏曲」(1935)という曲は面白く聴けたが・・・。

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Hindemith: Der Schwanendreher ∙ hr-Sinfonieorchester ∙ Antoine Tamestit

       
       投稿音源のものではありません。

【新ロマン主義から12音列無調へのシェーンベルク等の新ウイーン楽派の流れ、とりわけウェーベルンに魅かれていた我が身には、かたやの新古典主義者たちはあまり興味を惹くものではなかった。

ということもあり、新即物主義を唱える(と言われている)、このヒンデミットも、あまり真面目に聴いてこなかった。というより意識的に遠ざけてきた。ま、単純にわが感性にフィットしなかったと云うだけのことなんだけれど。

そもそも、その<即物主義>なる語意が分からなかったのだ。恥ずかしながら、それもきょうWIKI検索にて氷解した次第だ。

つまり【新即物主義しんそくぶつしゅぎ、独:Neue Sachlichkeit)とは、第一次世界大戦後に勃興した美術運動である。ノイエザッハリヒカイト。1910年代の個人の内面と探求の表現を目指した、主観的ともいえる表現主義に反する態度を取り、社会の中の無名性や匿名性なものとして存在している人間に対し冷徹な視線を注ぎ、即物的に表現する。】(WIKIより)なのだそうだ。

なんだか分かったようなわからないような・・・。ようするに、主観的な主情による表現主義を採らないということなのだろう。だからなのだろうか、彼らの盛り上がるようで、盛り上がらない、およそ中間的な退屈な作風、ドラマティックなところがないといえばいえる作風、だけど、典雅、荘重、重厚さ、かっちりした形式感は聞こえてくるという中途半端?さ・・・。

先日、ラジオから流れていて、その「典雅、荘重、重厚」を響かせていたオーケストラ作品が、後で知ったことだけれど、なにあろう今日取り上げるヒンデミットの、1934年という冥き時代を背景に持つ『交響曲〈画家マティス〉』だったのだ。】


のっけから、4年近く前の投稿記事からの再掲なのだけれど、おおむねこうした印象は、今回聴いたヒンデミットの『ヴィオラ管弦楽のための全作品集』でも変わらなかった。

もっとも、うち「デア・シュヴァーネンドレーア(白鳥を焼く男)、<ヴィオラと小管弦楽のための古い民謡による独奏曲」(1935)という風変わりな表題の曲は面白くきけたが。民謡というわかりやすいメロディがベースにあるゆえなのだろう。

シェーンベルク (Arnold Schoenberg, 1874 - 1951)、ヴェーベルン (Anton von Webern, 1883 - 1945)、それにベルク (Alban Berg, 1885 - 1935)らの華々しい革新的音楽動向の新ウィーン楽派に対し、

【1910年代の個人の内面と探求の表現を目指した、主観的ともいえる表現主義に反する態度を取り、社会の中の無名性や匿名性なものとして存在している人間に対し冷徹な視線を注ぎ、即物的に表現する。】(WIKIより)と言ったことの帰結なのかどうか【盛り上がるようで、盛り上がらない、およそ中間的な退屈な作風、ドラマティックなところがないといえばいえる作風、だけど、典雅、荘重、重厚さ、かっちりした形式感は聞こえてくるという中途半端?さ・・・。】・・・。

大上段に構えない、つまりはちょいと斜に抵抗してみるといった風情。これに軽ろ身をくわえると軽妙、洒脱、ノンシャラン。成るようにしかならない・・・となる。

時代はそれだけ重苦しかったと言えばいえるし、ちょいとした抵抗姿勢・・・大上段にではなく。同時代性をもつフランス6人組もそう。息苦しさからの救いを斜に構えた軽ろ身に逃げた?。

繰り返すことに意義を持つ日常の生活なんぞはいつの時代も退屈なものと思われるが…。その退屈さに「即物的」に寄りそった音楽。

私の好みとしない曲風達デハアリマス。

感情のうねり、主情を排した無機的、能面のような・・・ともいえる形式の世界。

けれど


 「当代で最も偉大な作曲家であったが、最も後生への影響を及ぼさなかった作曲家」 (グレン・グールド

とのヒンデミットへのグールドの有名な評言をここで銘記しておこうか。

斯く、それほどの作曲家であることを評価すべきなのでしょうが・・・。


それにしても、時代はロシア革命から第一次世界大戦、ナチズムへの奈落まっしぐら。時代思潮は社会主義革命、科学のみならず現代認識論のコペルニクス的転回といえるアインシュタイン相対性理論からボーアハイゼンベルクの量子革命、それと、人の生と死へ、その存在への問題を投げかけた実存主義への道をつけたハイデッガー存在論など、思いつくだけでも斯くなるビビッドな動きを見せた時代だった。

斜に構えて対峙できるほど時代は生やさしくはなかったと思うのだが。

斜に構え、調子、調性を外すと、軽妙洒脱も、軽薄に堕す。

ヒンデミットを聴くと、こうした時代背景を思い、どうしても斯くなる捩れた不可解にもどされる。



以下は、既投稿済みよりの紡いだことばの再掲。

マスとしての大衆社会の到来・・・。ハイデガーのダスマン(頽落(たいらく)としての世人、ただのひと)としての人間規定。主著「存在と時間」の出版は1927年。時代はまさしく、新即物主義の時代で、ヒンデミットの音楽背景とハイデガーの思想背景は相同なのだ。


ウェーバーの主題による交響的変容」(1943)はアメリカ亡命中に作曲された作品のよし。ジャズ・ブルース的要素等を繰り込んでの目新しさが特徴といえば言えるけれど、一言つまらない。アルノルト・シェーンベルク (Arnold Schönberg, 1874 - 1951)やリヒャルト・シュトラウスの凄さが対比的によく分かって、これはこれでいい鑑賞機会だったと言えるのかも。


後の若き世代がシェーンベルクヴェーベルン(Anton (von) Webern, 1883 - 1945)へと革新の指標を求めたのもうなづけるというものだ。
この不毛はいったい何なのだと、思想・哲学界を覗いてみた。だが同時代に黒森の哲人 マルティン・ハイデッガーMartin Heidegger, 1889 - 1976)がいたではないか。主著『存在と時間』は1927年を画期としていた。ウーン、どう結びつけ了解すればいいのだろう。どっちつかずの中途半端、退屈な緩るフンドシと、深遠の思索の同在。



ヒンデミット関連既投稿記事――


http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/61956294.html ヒンデミット『ピアノ、ヴィオラとヘッケルフォン (Heckelphone)(またはテナー・サクソフォーン)のための三重奏曲 op.47』(1929)。


http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/60560268.html ヒンデミット交響曲〈画家マティス〉』(1934)。アンリ・マティスと思い込んでいた何たる無知の無恥。いくらか自戒をこめての「典雅、荘重、重厚」な響きに聞き入る。




http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/60150424.html パウルヒンデミット『室内音楽選集』。<どっちつかずのかったるい、退屈な印象>を再確認しただけだった。やはり肌に合わないようだ。



Hindemith『ヴィオラ管弦楽のための全作品集 Complete Works For Viola - Volume 1』