再度モーツァルト『交響曲第25番・第29番・第31番・第33番~第36番・第38番~第41番』CD4枚組。おや?意外に交響曲的(ハイドン的?)で、これはいいではないかと印象した第33番・第34番。
2年近く前に、町の図書館所蔵のアルバムを借りてきて、以下すでに投稿しているのだけれど。
http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/62962894.html モーツァルト『交響曲第25番・第29番・第31番・第33番~第36番・第38番~第41番』CD4枚組。交響曲第40番ト短調K.550「この曲からは天使の声がきこえる・・・」(シューベルト)。
その中で以下綴っていたのだった。
【いままでに20稿ほどモーツァルトを投稿しているけれど、交響曲は一つもない。つまりは、あまりわたしの好みの分野ではないことをそれは証示しているといえる。交響曲はやはりベートーヴェンとなってしまう。ピアノ協奏曲は投稿しているのだけれど。
斯く、モーツァルト(1756年 - 1791年)の交響曲への評価印象(というより、私の好みにすぎないのですが)は今回聴きなおして(じっくりと聴きこんだわけでもない。いつもですが。)みてもあまり変わらなかった。交響曲はベートーヴェンであり、モーツァルトはピアノ協奏曲である・・・。
ちなみに【交響曲第33番 変ロ長調 K.319 は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが1779年に作曲した交響曲。ザルツブルクの宮廷音楽家を務めていた最後の時期の作品の一つ】(WIKI)。また【交響曲第34番 ハ長調 K.338 は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが1780年に作曲した交響曲である。ザルツブルクの宮廷音楽家時代に作曲した最後の交響曲に当たる。】(WIKI)。
交響曲から線的な<歌>が耳にこびりついてくる作品の多い中、シンフォニックなカッチリした趣の響きををもつのが、この「第33番・第34番」だった。
剄さがある。
ところで、たまたまポロッと出てきたコピー紙ゆえ、出典が何なのか憶いだせないのだけれど、作曲家ベートーヴェンと音楽家モーツァルトということのその論説がおもしろいので備忘録の意味もあって、以下引用貼り付けて擱こう。
【「ベートーヴェンは、「作曲家」とは何をする人間であるか、初めて身をもって示した人です。極端なことを言うと、「作曲の歴史はベートーヴェンから始まる。ベートーヴェン以前に作曲家はいない」のです。
彼は、常に自分の作品に批判を加えました。自己批判を恐ろしく自分に課したのです。また努力できることは、最大限努力しました。他人がそれをわかろうがわからなかろうが関係なく、自らの使命に従って、自らの価値観に忠実に音楽というものを追求したのです。
これを芸術家と言わずして、何を芸術家と言うのでしょう!
音楽家は大勢います。モーツァルトがその最たる人ですが、彼が神に選ばれた音楽家だとすると、ベートーヴェンは神に選ばれることを拒否し、自らの道を歩もうとした偉大な芸術家です。
プロの音楽家というのは、人々を楽しませて生活します。
しかしベートーヴェンは、いかに人間の精神は高貴なものを作りうるか、あるいは人間の想像力は音楽をどこまで高められるか、という課題に生涯をかけました。
ここで初めて作曲家=芸術家という図式が成り立ちます。だから僕のいう作曲家というのはここから始まったというわけです。それまでは音楽家に過ぎません。・・・」】
彼は、常に自分の作品に批判を加えました。自己批判を恐ろしく自分に課したのです。また努力できることは、最大限努力しました。他人がそれをわかろうがわからなかろうが関係なく、自らの使命に従って、自らの価値観に忠実に音楽というものを追求したのです。
これを芸術家と言わずして、何を芸術家と言うのでしょう!
音楽家は大勢います。モーツァルトがその最たる人ですが、彼が神に選ばれた音楽家だとすると、ベートーヴェンは神に選ばれることを拒否し、自らの道を歩もうとした偉大な芸術家です。
プロの音楽家というのは、人々を楽しませて生活します。
しかしベートーヴェンは、いかに人間の精神は高貴なものを作りうるか、あるいは人間の想像力は音楽をどこまで高められるか、という課題に生涯をかけました。
ここで初めて作曲家=芸術家という図式が成り立ちます。だから僕のいう作曲家というのはここから始まったというわけです。それまでは音楽家に過ぎません。・・・」】
Mozart: Symphony No.33 - Harnoncourt/WPh(2009Live)