ハイドン『クラヴィーア作品集』。「・・・だいたい、ハイドンは売れない、というのが世の中の常識のようである。・・・」
Joseph Haydn - Piano Sonata in E flat major, Hoboken XVI:49 (1789) Ursula Dütschler, fortepiano.
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【 ピアニストにとって、ハイドンという作曲家はまだ未知の部分が多いように思う。ピアニストに限らず演奏家や音楽愛好家にも、これだけ名前は親しまれていながらこんなにエンジョイされていない作曲家もめずらしいのではないだろうか。
だいたい、ハイドンは売れない、というのが世の中の常識のようである。今回のCDは何でいきましょう、という話になったとき、「ハイドンをやりたい」と言ったら「ウーン。モーツァルトは……?」と言われてしまった。最終的にはOKをいただいたので、このCDが生まれたのだが……。リサイタルの依頼にしてもそう。ハイドンだとお客さんが集められないからモーツァルトも入れてはしい、といわれることが多い。しかし実際にコンサートに来て下さった人たちはむしろハイドンのほうを楽しんでいるようにさえ思えるのだ。(もちろん、モーツァルトとハイドンどっちがいいかというのはもともと意味のないことだが)、ハイドンのほうがめずらしいぶん新鮮にきこえる、ということを差し引いてもハイドンは文句なく面白い!のである、思い切りのよい構成力と大胆な発想は聴く人をひきつけ、音使いの面白さ、躍動感は演奏するものにとってもこの上ない快感である。
しかし、私たちを魅了するのはそういった心地よさだけではなく、彼の音楽の根底にある精神の素朴な力強さと、感情の豊かさ、そして驚くべき多様性ではないだろうか。ハイドンは1732年~1809年という長い人生を生きた。彼の音楽の中には後期バロック―古典派-ロマン派という時代の流れ、古さと新しさ、それに彼自身のあふれるばかりの独創性がみごとに結びついているのである。・・・】(小島芳子「ハイドンは面白い!」・同梱解説より)
たしかに、ハイドンはモーツァルトやバッハ、ベートーヴェンなどなどの音楽史的大天才の中では、地味?なのか、あまり人気がないようにおもわれる。それが証拠?に、わが町のネット図書館の所蔵数は、ごく限られたものだ。
今日投稿した「クラヴィーア」(鍵盤楽器、ピアノ)作品なども、そのごく僅かな内の一枚だ。円熟期を迎えて、無念のうちに病に斃れたフォルテピアニストの、上記引用のような謂いもよくわかる。
今日投稿した「クラヴィーア」(鍵盤楽器、ピアノ)作品なども、そのごく僅かな内の一枚だ。円熟期を迎えて、無念のうちに病に斃れたフォルテピアニストの、上記引用のような謂いもよくわかる。
【 ハイドンをきくたびに思う。なんとすてきな音楽だろう、と。すっきりしていて、むだがない。どこをとってみても生き生きしている。いうことのすべてに、澄明な知性のうらづけが感じられ、しかもちっとも冷たいところがない。うそがない。誇張がない。それでいて、ユーモアがある。ユーモアがあるのは、この音楽が知的で、感情におぼれる危険に陥らずにいるからだが、それと同じくらい、心情のこまやかさがあるからでもある。
ここには、だから、ほほえみと笑いと、その両方がある。
そのかわり、感傷はない。べとついたり、しめっぽい述懐はない。自分の悲しみに自分から溺れていったり、その告白に深入りして、悲しみの穴をいっそう大きく深くするのを好むということがない。ということは、知性の強さと、感じる心の強さとのバランスがよくとれているので、理性を裏切らないことと、心に感じたものを偽らないということとが一つであって、二つにならないからにほかならないのだろう。
こういう人を好きにならずにいられようか? こういう芸術を好きにならずにいられようか?「私は、音楽は、その本質からして、感情であれ態度であれ、心理状態であれ自然現象であれ、何一つ表現することはできないと考えている。表現は、これまで音楽の本質的な特性であったためしはなかった。」
これは、ことわるまでもなく、ストラヴィンスキーの信条告白だが、ハイドンの音楽を思い出してみると、ストラヴィンスキーが力をつくして戦っている当面の相手、「表現」というものが、そんなに恐るべき敵でなかった十八世紀の音楽家ハイドンの立場が、まるでちがったものだったことに気かつく。
ハイドンの音楽も一定の感情とか心理状態とかを「表現したもの」ではなかったろう。しかし、ハイドンとストラヴィンスキーと、この二人の音楽は何とちがっていることだろう!。
ストラヴィンスキーが典型的に代表しているところの、「表現」に対する近代の芸術家たちの過敏な敵意、警戒心は、十九世紀以来流行し、芸術を一方的にゆがめるもとになった「解釈」という行為に、その悪に、むけられているのである。音楽作品が、「月の光」を、「英雄」を、「哲学」を表現していると考え、それをめぐっていろいろ解釈しようとする態度に対し、近代芸術家は敵意を持った。そうして、「芸術作品はそれ自体以外の何を表現しているわけでもない。作品それ自体をみたまえ。それだけをきくがよい。」と主張する。「表現」は、彼らには、タブーとなった。
しかし、ハイドンをきいていると、音楽は別に何といって特定の対象を表現しているわけではないけれども、だからといってこの音楽をきいていて、私たちは、そこに一人の人間のいることを感じないわけにいかないのである。こういう正直で敏感でクリアーな音楽を書いた人間の存在を、モーツァルトともベートーヴェンともちがう人間の現存を、感じないわけにいかない。
といって、私は何も、ここにハイドンという人間が描写されているというわけではない。だが、彼の作品では、情緒過剰はまるでない反面、作者不在という趣も皆無である。別の言葉を使えば、ハイドンの音楽には、ストラヴィンスキーのそれのような抽象的な趣が、少しも感じられないのである。】(吉田秀和)
ここには、だから、ほほえみと笑いと、その両方がある。
そのかわり、感傷はない。べとついたり、しめっぽい述懐はない。自分の悲しみに自分から溺れていったり、その告白に深入りして、悲しみの穴をいっそう大きく深くするのを好むということがない。ということは、知性の強さと、感じる心の強さとのバランスがよくとれているので、理性を裏切らないことと、心に感じたものを偽らないということとが一つであって、二つにならないからにほかならないのだろう。
こういう人を好きにならずにいられようか? こういう芸術を好きにならずにいられようか?「私は、音楽は、その本質からして、感情であれ態度であれ、心理状態であれ自然現象であれ、何一つ表現することはできないと考えている。表現は、これまで音楽の本質的な特性であったためしはなかった。」
これは、ことわるまでもなく、ストラヴィンスキーの信条告白だが、ハイドンの音楽を思い出してみると、ストラヴィンスキーが力をつくして戦っている当面の相手、「表現」というものが、そんなに恐るべき敵でなかった十八世紀の音楽家ハイドンの立場が、まるでちがったものだったことに気かつく。
ハイドンの音楽も一定の感情とか心理状態とかを「表現したもの」ではなかったろう。しかし、ハイドンとストラヴィンスキーと、この二人の音楽は何とちがっていることだろう!。
ストラヴィンスキーが典型的に代表しているところの、「表現」に対する近代の芸術家たちの過敏な敵意、警戒心は、十九世紀以来流行し、芸術を一方的にゆがめるもとになった「解釈」という行為に、その悪に、むけられているのである。音楽作品が、「月の光」を、「英雄」を、「哲学」を表現していると考え、それをめぐっていろいろ解釈しようとする態度に対し、近代芸術家は敵意を持った。そうして、「芸術作品はそれ自体以外の何を表現しているわけでもない。作品それ自体をみたまえ。それだけをきくがよい。」と主張する。「表現」は、彼らには、タブーとなった。
しかし、ハイドンをきいていると、音楽は別に何といって特定の対象を表現しているわけではないけれども、だからといってこの音楽をきいていて、私たちは、そこに一人の人間のいることを感じないわけにいかないのである。こういう正直で敏感でクリアーな音楽を書いた人間の存在を、モーツァルトともベートーヴェンともちがう人間の現存を、感じないわけにいかない。
といって、私は何も、ここにハイドンという人間が描写されているというわけではない。だが、彼の作品では、情緒過剰はまるでない反面、作者不在という趣も皆無である。別の言葉を使えば、ハイドンの音楽には、ストラヴィンスキーのそれのような抽象的な趣が、少しも感じられないのである。】(吉田秀和)
Joseph Haydn - Piano Sonata in C major, Hoboken XVI:50 (1794) Ursula Dütschler, fortepiano.
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ハイドン『クラヴィーア作品集』