yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

ドビュッシー『管弦楽曲集』。ブーレーズ指揮する、【「フランス的な音楽家」でもなく「印象主義者」でもない】ドビュッシーの管弦楽作品。スケール大きく深くてハード。

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Claude Debussy, La Mer, trois esquisses symphoniques pour orchestre. Pierre Boulez

        
      http://www.youtube.com/watch?v=nLhY0_CYcuU  (貼り付け不可)


以下はネット図書館で借りたピエール・ブーレーズ指揮する『ドビュッシー管弦楽曲集』の同梱解説よりの引用。ちょいと長文に過ぎますが。


指揮者によるノート
          ピエール・ブーレーズ

 ドビュッシーは、その晩年の愛国的な傾向から考えると、「フランス的な音楽家」と呼ばれることをよろこんで受け容れたと思われる。しかし、いわゆる通の連中が、自分たちのつまらぬ尺度でドビュッシーを推し量って、彼に「フランス的な音楽家」というレッテルをはろうとしたとしても、実のところ、ドビュッシーは、「フランス的な音楽家」からはおよそ遠い存在であった。

このよび名の起りには、ドビュッシー自身の責任もないことはないのだが、彼は、いわゆる「印象主義者」でもなかったのである。こうした誤解のもとになったのは、ドビュッシーの作品につけられた絵画的な題名と、「クロシュ氏はオーケストラの総譜について、まるで絵画を語るように話す」という言葉である。つまり、いわゆるアンチ・ディレッタンティズムという簡単な問題なのである。

一方では、ドビュッシーは、拒否することにかけて偉大な能力をもっていた。スコラ・カントゥルムに反対して論争したとき、ドビュッシーは、「ビーヴァーの科学」を斥け、「音の錬金術」を支持したのであった。それまでに築きあげられてきた、さまざまな音楽上の技法や因襲に戦いを挑んだ彼は、透明に結晶していく即興という夢を追い求めていったのである。つまり、往々にして、作曲家という芸術家を、積木の建物で遊ぶ子供のような、他愛ない存在におとしめてしまう、あの構成というゲームを厳しく拒否したのである。ドビュッシーにとっては、作品の構成というものは、決してわかりきった代物ではなかった。彼は、つねに、分析しきれない何ものかを追求してやまず、驚きと夢想を人の心の中に喚び覚ますような楽想の展開法を追求していったのである。ドビュッシーは、記念碑のようにじっと立つ建築物を思わせるような作品に信をおかず、厳格さと恣意がまじりあったような構成の方を好んだのであった。彼には、言語も、調性も、その他の学問的なはったりがましいことどもも、すべて、意昧のないことであり、関係のないことであった。枯渇しきった伝統的なカテゴリーなどというものとも彼の作品は関係がなかった。彼自身のテクニック、彼自身のヴォキャブラリーや形式を創り出そうと努力した結果として、当時、まだ厳然として不動の存在であった、さまざまの観念を弊履のように捨ててかえりみないということになったのであった。流れ動いて瞬時もとどまることを知らない要素と、瞬間とが、ドビュッシーの作品の中に吹き上がる。たまゆらの印象とか、触れ得ぬ、あえかな感覚などばかりでなく、関連づけられていて、変わりようのない、音楽的な時間、もっと一般的に言えば、音楽的な宇宙という概念までが、この瞬間に凝縮されているのである。

音の響きを組織するときにも、この考え方は、既存の音のヒエラルキーを、音の世界に関する唯一の資料として認めることを拒否するというかたちで表明されたのであった。対象間の関連性は、うつり変る機能との関係で定められていく。リズムの資料として認めることを拒否するというかたちで表明されたのであった。リズムの処理について言えば、これまた、きわめて類似した性格のものであって、韻律に関する考え方の中にも、流動性を尊重するという態度がはっきりとあらわれているのである。同じように、色彩的な音楽の追求が、書法、つまり、さまざまな楽器の組み合せ方や、オーケストラの響きのつくり方などに、大きな影響を及ぼしている。自ら進んで独学者となったドビュッシーは、勇気をふるって、音楽を創造するという営みのあらゆる面について、根底から考え直したのであった。この過程で、ドビュッシーは、りねに、眼を瞠らせ、耳を聳てさせるようなものとは限らないけれどきわめて急進的な革命を遂行していったのである。ドビュッシーは、あらゆる時代を通じて考えても、もっとも孤立した作曲家に属する。ドビュッシーが、他人に理解し難い実験を試み、いとも豪奢な沈黙の中に閉じこもっていたからという理由で、彼の時代が、ドビュッシーに、不承不承、問題を逃避的に、しのびやかな方法で解決せざるを得ないように追いこんだとしても、すくなくとも、19世紀と20世紀においては、ドビュッシーこそ普遍的であり得た、唯一人のフランスの作曲家だったのである。彼は、なんとも知れぬ、人を呪縛するような魅惑をもっている。彼は、現代音楽が運動を開始した時期に、その先鋒であったが、きわめて孤独であった。

「あの、いつもさらに遠くへ行こうとする彼にとっては、飲食の糧にも等しい志向」にうながされて、ドビュッシーは既存の秩序と関連のあるあらゆる試みを、あらかじめ否定してかかったのであった。ドビュッシーの時代とはセザンヌマラルメの時代であったということを忘れてはならない。この同時に発生した、3つの文化的な「事件」は、あらゆる近代芸術にとって、その根幹をなしているのではないだろうか。

ドビュッシーが、実生活で革命を遂行していったのはもちろんだが、その見果てぬ夢を夢想することもまた、きわめてしばしばであったという事実がひろく知られ、そのような人間像として理解されることを望んでいるということは議論の余地がないほど明白なことである。】


ここで言われているように、

【実のところ、ドビュッシーは、「フランス的な音楽家」からはおよそ遠い存在であった。・・・彼は、いわゆる「印象主義者」でもなかったのである。」・・・】

たしかにこのアルバムで聴けるドビュッシーは、「フランス的」でもなく「印象主義的」でもない。響きのスケールが大きく、ハードで、あえて言えば、ドイツ音楽的な深みをおし出しているのだ。

ソフト、華麗軽流の一歩間違えれば俗っぽさと堕す印象主義。テレビ映像のバックに心地よく流される美しい響きをもつ柔な音楽といった趣。こういった演奏の多い従来のドビュッシー管弦楽に抱いていた、私の「ドビュッシーは、ピアノ音楽であり管弦楽ではない」という私の選好を打ち砕くに足るピエール・ブーレーズ指揮する『ドビュッシー管弦楽曲集』だった。



Debussy Prelude to the Afternoon of a Faun; Boulez
http://www.youtube.com/watch?v=rB6VOY55hxw  (貼り付け不可)






ディスク:1
1. 交響詩「海」 I.海の夜明けから真昼まで
2. 交響詩「海」 II.波の戯れ
3. 交響詩「海」 III.風と海の対話
4. 夜想曲 I.雲
5. 夜想曲 II.祭
6. 夜想曲 III.海の精(シレーヌ)
7. 交響組曲「春」 I.Tres modere
8. 交響組曲「春」 II.Modere
9. クラリネット管弦楽のためのラプソディ 第1番

ディスク:2
1. 牧神の午後への前奏曲
2. 遊戯
3. 管弦楽のための映像 I.ジー
4. 管弦楽のための映像 II.イベリア a)通りや小道を抜けて
5. 管弦楽のための映像 II.イベリア b)夜の香り
6. 管弦楽のための映像 II.イベリア c)祭りの日の朝
7. 管弦楽のための映像 III.春のロンド
8. 神聖な舞曲と世俗的な舞曲 神聖な舞曲
9. 神聖な舞曲と世俗的な舞曲 世俗的な舞曲




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フランス国立放送局合唱団/マルティノンドビュッシー管弦楽曲全集

http://www.discogs.com/Debussy-Orchestre-National-De-LORTF-Jean-Martinon-Orchestral-Works/release/997494 Debussy* - Orchestre National De L'ORTF*, Jean Martinon ‎– Orchestral Works

Debussy - Jean Martinon, ORTF - La mer
http://www.youtube.com/watch?v=TO4HMyhRx4Q

Debussy - Jean Martinon, ORTF - Prélude à L'Après-Midi D'Un Faune
http://www.youtube.com/watch?v=8lZVkaFPQHI