yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

合同ではなく相似です

イメージ 1

恐ろしく不定期刊行の雑誌であった。2号の発行は実に1年後。待つのにくたびれた頃にやっと出た。多分まず読んだのは<場所と屍体>の稿であったろう。重力波の孤独なんぞと宣たまわれるともう堪らない。目くるめき正剛ワールドの展開に感じ入るばかりであった。ところで先日とりあげた若き正剛著<自然学曼荼羅>の見返しに稲垣足穂からの引用がある「ねえ、口で伝えられる物語のように、移ろい行き、溶けて幻に似た無に近づく物質の将来について、語ろうじゃありませんか。」もう堪らない。気配に影向する弥勒菩薩。さて以下松岡正剛編集、1978年発行のOBJET MAGAZINE<遊>1001、相似律よりの引用「合同でなく、相似である。数学的幾何学は合同を可能にするが、自然と存在の幾何学は合同を許さない。同じうしようとするから貧しくなり、険しくなり、寂しくなる。合同とはしょせん思い上がった自意識による思いがけない孤立のことだ。すべからく似ようとするにとどめるべきである。似ようとしてそこに近づき、マルティン・ハイデガーの<近さ>を熟知した上で、合同の直前で踏みとどまらなければならない。<相似>とは攻めきらない律動のことである。」この様なイメージの言語表現を他に誰が出来ようか。この<相似律>あなたの観念世界にとって非常に刺激的な一冊であること請け合いである。


        「或るものはつねに似ている」(稲垣足穂


   ―――以下松岡正剛ホモロジックワード―――

「神をしか名状しがたいのであれば神でいい。妙な実体概念に振り回されるよりはよほど結構だ。」

「ありあわせこそ、わが造形的生活の基盤である。」

「気味悪さこそ事物の存在学の核をかたちづくっている気配の本体にほかなりません」

「さあ、全部なくなりましたね、その無くなった全部が、ほれ、この机の上の消しゴムじゃ!」


松岡正剛<遊><千夜千冊>――http://www.eel.co.jp/03_near/01_seigowchannel/now_events/040810senyasyuppan_2.html