yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

飽きるほどの反復くりかえしにも意義はある。

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           In C by Terry Riley - original recording - Part 1
           http://www.youtube.com/watch?v=OjR4QYsa9nE

唄を歌うでもなく、メロディーを口ずさむでもなく、あなたは一人所在無く坊主の読経するが如く低い声の持続音を口ずさみもて遊んでいたことがないだろうか。そうして何の意味をもこめずに時をやり過ごしていたことがあったのではないだろうか。ごく自然な音域のしずかに持続する音に人はどうして心ひかれるのだろうか。区切られた音よりも持続する音に、ある種瞑想的な心の静穏を誰しも感じるのではないだろうか。なぜだろう。人間にとっての時間のありようゆえなのだろうか。ジョン・ケージは聴こえない沈黙に音楽行為での意味を投げかけた。また偶然性を持ち込んで音楽時間のつながり関係の目的合理性からの解き放ちをこころみたと言われている。そのケージの問いかけ実践を、<音がする持続する沈黙=反復の音楽>として展開したのが、アメリカでのケージ後のスティーブ・ライヒ、ここに採り上げるテリー・ライリーらであった。変化しない音がなり続ける。それは沈黙と同様の、<無時間の持続>でもある。<沈黙としてのドローン(持続音)>。ところでこれらミニマルミュージックに聴かれる単純な反復によって形成される持続は変化の移り行きが極めて緩やかであるため同じものの繰り返しに聴こえる。それ故それらは<沈黙としてのドローン(持続音)>と同様に聴こえるだろう。《無時間にねざした反復の音楽、それらに対しての伝統音楽の目的合理性の音楽的時間-近藤譲アメリカに展開されたミニマル・ミュージックにこうした<時間>からのはばたきの実践を聴くのは理屈でしかないのだろうか。わずかの音のズレ、変化、それらに気づき聴いたときの心のほのかな愉楽をよしとする音楽。そのようなこと以上に退屈な音楽だと印象する方々もおられるでしょうが、ミニマル・ミュージックの意義は軽くはないとわたしは思いたい。最後に大岡昇平のことばを引用する。《人間の存在の根源的なひとつの要素として、子供が繰り返しを喜ぶということがある。同じことをしているんです。それは一種の遊びでもあるけれど、われわれの身体条件の中にあるわけですよ。ところが、生活の条件が繰り返しにあるとはゲーテがすでに言っている。まったくゲーテというやつは、たいていのことは言ってしまっているようですね。》飽きるほどの繰り返しにも意義はある。