yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

音世界を旅する時間との格闘家ジョン・ケージ

イメージ 1

これって時間との戦い?ひょっとしてジョン・ケージが格闘していたのは音楽の存在要件としての時間にだったのか。強大な呪わしいまでの力としての時間。『これからさき、人類が進化するにはまず、時間を征服することが条件なのかもしれない。』(J・G・バラード)時間を牛耳り、下僕にする人間とは何か。神以外にありえるのか。時間なしに存在がありえるのか。あと、さきとは意識を持つ人間が意味づけただけの秩序概念でしかないのではないか。カントだったか左、右というも人間存在以外に何ほどかの意味があるのかという指摘『人間の片方の腕のほかには全空間が空っぽのとき、この腕が右腕であると明言することは意味をなすかどうか、というパズルを提案した。はっきりしていることは、答えがないということである。「左」とか「右」という概念は空虚な空間では意味をなさないからである。』(ルディ・ラッカー)は言われるまでもないことだろう。もちろん上、下なぞも同様だ。宇宙にしてみれば右も左も上も下もなかろう。『ひょっとしたら宇宙の方では彼(人間)について聞いたこともないかもしれぬのではないか?』(コリン・ウイルソン)。ことほど左様に順序としての時間概念も秩序としての概念でしかないのではとも言えよう。『その世界がどのような世界であるかは、何を期待したかに左右されるのであろうけれども、当の自然はどちらにもふるまう理由をもちあわせていないはずなのである。』(マーチン・ガードナー)『絶対的決定論因果律というものは如来の世界で、我々が生きている世界はそんなものじゃない。情報というのは菩薩に属する典型的な概念なんです。情報は意識をもっている人が意識をもっていないものから何かを取り出して成立する。』(渡辺慧)『自然界では、いかなる秩序も、いかなる形態も、いかなる機能も、生まれることも失われることもない。それらは組み合わせによって変換するだけである。』(リマ・デ・ファリア)つまりは現存在としての人間の世界開示の秩序概念でしかないということであろう。だからこそ現存在としての人間が常に出会う『秩序とは、予期しなかった秩序である。』(アンリ・ベルグソン)それゆえに不確定不確実の無底として現存在はその無根拠をもつともいえよう。よりどころ、寄る辺のなさがヒトであろう。ヒトは災害に遭うときは遭うがよろしいと言い切ったのは大愚・良寛ではなかっただろうか。いわゆるよく言う人知の及ばぬ事象への人間の無力さといったこと以上の哲学がありはしないだろうか。さてところで時空は物質の存在形態でしかないとして科学は何ほどの展開を救いとして人間に与えられるのだろうか。方法としてのジョン・ケージとは時間のしがらみ、足かせへの革新であったのだろうか。それゆえ意味のズレが生じるところに現れ出るかつて出会ったことの無い出来事へのひたすらな出会いを希求する彷徨・コンセプトの旅であったのであろう。この76年と記録されているドイツWERGO盤のジョン・ケージによる<Song BooksⅠ・Ⅱ+Empty WordsⅢ>のパフォーマンスは秀逸である。記憶するところジャケットのマルセル・デュシャンの横顔の一筆書きはデュシャン本人のものではなかっただろうか。ジャケットデザインに魅かれて手に入れたのではなかったか、それはもう記憶の彼方であるけれど。

            良寛――http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1000.html