yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

音にすさぶ(遊ぶ・荒ぶ)ハン・ベニンクのソロアルバム

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<数寄>とはこういったものを指すのだろう。このペーター・ブロッツマンの良きパートナーであるハン・ベニンクというドラマー・パーカショニストという男はまさにそれにふさわしく、音に遊び、呆けて日暮れぬという風情である。こう云う数寄にスサブ<遊ぶ(荒ぶ)>人間、ミュージシャンがいるからフリージャズ世界は面白く堪らないのである。『遊びせんとや生まれけん 戯れせんとや生まれけん』(梁塵秘抄)本来、人間戯れるということである。だれとか?神とである。『遊ぶものは神である。神のみが遊ぶことができた。遊は絶対の自由と、ゆたかな創造の世界である。それは神の世界にほかならない。この神の世界にかかわるとき、人もともに遊ぶことができた。神とともにというよりも、神によりてというべきかもしれない。』([http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/39759503.html 白川静])。「遊ぶ」はすさぶとも訓む、またすさぶは「荒ぶ」とも当てる。この「遊ぶ」が「荒ぶ」へとスサブとして転化してゆく内実の薀蓄はいま擱くとしてその字義は《1 興にまかせてすること。慰みごと。「筆の―」2 成り行きにまかせること。》(YAHOO辞書・大辞林)とある。このハン・ベニンクのソロアルバムには最小限の、いわゆる本で言うところの奥付け程度のデータしか記されていないが、オーバーダビングもしくは既録音の音源とのワンマンパフォーマンスでの作品であろう。まさに典型的な「興にまかせてする」数寄にふさわしい内容となっている。下手に創り上げようとせず、意味づけすることもせず、まことすがすがしい気持ちのいいソロという名の自分自身とのインタープレーである。打楽器のみならずピアノ、サックス、バイオリン、ハンドメイドパイプ楽器、ハーモニカその他音の出るものなら何でもという、はてはタイプライター、ハンドマイク、自らの歩く靴音に至るまで、まったくの趣くままの「成り行きにまかせる」インプロヴィゼーション・エンターテイメントで徹頭徹尾、<すさぶ>という見事さである。ベースがあくまでジャズであることがその<すさぶ>に<数寄>の拍車をかける。現代打楽器音楽作品・演奏によくある、いわく意味ありげのくそまじめなくだらなさがないだけにおおいに楽しく聞ける。「沈黙の深さ」と「音」とよく現代音楽作曲家は深刻にのたまうけれど、沈黙があって音が際立つわけでもなかろう、逆に先ず音ありきだ。音の反照として沈黙が深みを獲得するのではないのか。胸に表現したいものがありはするだろうが、しかしたぶんその表現したいものが表出された結果それだけで作品となるわけではないだろう。そうした実体、機能論で芸術の持つ表現の実相が果たして語りえるのだろうか。誰が言ったか知らないが、人間誰しも自分を買かぶっているものだそうである。表現したいものが自分にはあるのだけれどそれを的確に表現できないと。はたしてそうだろうか。実はそんなものは単なる思い込みでしかないのではと当節正直思っている。『人間は単に表出者ではなく、そうした表出すべき自己は存在しない。表出した結果において初めて自己が表出されるわけで、対象的に展開された自己を彼が受容することで、彼の自己表出は完結するのであって、表出者は表出者としては完成していないわけです。』(大久保そりや)音の凄みが、音の深さが表現者をそれにふさわしい自己とするのであって逆ではないだろう。沈黙の深さは音にあり、その人の生き様にあるのだ。音にすさぶ(遊ぶ・荒ぶ)ここにその表現者の本来があり、神によりてあるのだ。そうしたことを考えさせる好アルバムといえよう。1978年ドイツ・ベルリンにての録音。