yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

手強くたちが悪い正説に佇む佐野清彦

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佐野清彦という作曲家1945年生まれというから私とほぼ時代を共有している事になる。もちろん思考の背景にあるものの時代性を共有しはするものの、それだからといって、こと観念世界の出来事、その価値観も似通うということは先ずないだろう。それほど人間というものは実世界での生き方では時代性の刻印を示すも、それらから遠く飛翔し抽象として成立する観念世界・芸術に於いてのポジションは抽象性が増せば増すほどさまざまであり得、したがって非常によじれた世界を現出する。まったく不可解な了解しがたい観念地平に自らをおし上げ、そうした観念世界をもって生きている人々であっても実生活での価値判断、実践は他者において理解・了解の範疇にあるものとして、共有する時代性なり、社会性なりを確認することができる。ところで、佐野清彦はほぼ時を同じくして近藤譲と同じ東京芸大で学び、長谷川良夫に同じく師事しており、この採り上げているアルバム中の自注に、70年から72年のあいだに「近藤譲と出会い即興演奏を試みる。互いにどちらのアイデアか不明になるくらい徹底して話し合う。・・・ミニマルアートに引かれる。」とある。私にそう思えるだけのことでしかないのかもしれないが、さてどこでこうも二人は違ってしまったのだろうか。このアルバム『奇有異』の収録作品を聴く限りでは、SIDE2、「TOSS-UP」、「URN」、SIDE3、「SOURCE」、「SPACE」 の、たぶん彼が否定するところの絶対音楽、伝統的な書法、音の受容のあり方によっている、あるいは払拭されていないとたぶん彼が思っているだろう作品のあり方で何故いけなかったんだろう。むしろ私にはこうした作品にこそ本来彼が突き進むべき道であったのではないかと思える。とりわけSIDE4の約30分におよぶ「KIUI」という作品は私にはどうも解せない。ここにたぶん彼、佐野清彦が言わんとした事の作品化があったのだろうけれど、私には解らない。非常に惜しいことである。のち音楽普及のための優れた書物をものし、また実践しているらしい業績はおくとしてもである。彼著した「音の文化誌」(雄山閣)に「即興性とは偶然として感ぜられる自然を人が演出したとき、事後に言語化したものといってさしつかえないでしょう。そしてそれ以外の偶然ならざる即興性とは単なる人の恣意性にしかすぎません。自由即興の芸、特に音楽における自由即興演奏(フリーインプロヴィゼーション)の問題点は、この真の即興性(それは偶然の僥倖、神の恩寵、神通の一瞬、自然の実相)が、本人の自然体の発露という思いと異なり、単なる恣いまま、自我の野放図の拡散に堕してしまうことが多いことです。」「理知の入り込めない音楽という思想、真の偶然性を感得するには理知を捨て大愚たらねばなりません。自由即興芸の真実は大愚であること、生起する事象、モチーフをあるがままに、理知の働きだす手前で素手で素裸でうけとめるところにあります。」そうしたことで現状の突破を常に図り続ける意味で大愚を現成し続ける必要があり、その意味でも自由即興は実践されるべきことであるとしている。至極もっともなことであるけれども、あらゆる現実の音が歴史的生成物として、また人の五感も常にいまここで歴史として現成しているのであればこそ、彼の主張する<真の>自由即興演奏はいまここに在るあらゆる産業技術、文化の歴史の成果を駆使しての音楽実践の中でしかなしえないのではないかと思える。そうした意味で前記の作品群にこそそうした可能性があったのではないかと思える。早い話が素朴な何もかもそぎ落とした音の姿にのみ始原性が現れるわけではなかろう。現代が創りだすノイズに神の訪れを、気配を、「偶然の僥倖、神の恩寵、神通の一瞬、自然の実相」を感じることだってあるのではないだろうか。先の佐野清彦主張することどもは、尤もであるだけに手強くたちが悪いと私には思えるのだが、どうだろうか。私には「KIUI」を聴く限り解らないながらもそう思わざるをえない。