yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

つねに始まりであり続けたケージのカートリッジミュージック

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騒音、雑音が音楽にその正当な位置を確保せしめたといえるジョン・ケージとデヴィド・チュードアーのパフォーマンスによる「カートリッジミュージック」cartridge music(1960)が収められたアルバムがこれで、1962年mainstreamレーベルから出された。これが音楽か?と誰しもそう思う。それは無理もなく、そうであっていいのであろう。つねづね言っているようにそうしたパフォーマンスでの音連れをこそ耳そばだてて聴く必要があるのだ。そうした音にまつわるあらゆる実践をこそ革新の真正として果敢にし続ける価値があるといえる。ケージは1912年生まれであるから、こうした騒がしい果敢な試みに投企していたのは50歳前後ということになる。論語で言えば天命を知る年齢ということになる。人生定まるということでもある。だがケージはつねに始まりであり続けた。「もしも調性音楽から脱却しようというならば、音を固定して考えていては意味がない。先ず音そのものへの変革から出発すべきである。」(ケージ)と師シェーンベルクのもと<楽音>を離れた。彼は楽音としての音楽だけが音楽ではなく「<音楽>とは、人間の生活の中での創造力への行動であり、人間の精神の内的構造に変革をもたらすひとつの手段であると考え続けてきた」(秋山邦晴)「旋律とは音の自然の状態ではなく、<音>を人間のひとつの価値観や趣味や感受性で、つまり個人の意味づけによって構成するということだ。」(秋山邦晴)そうした自己維持・自己表現の上で成り立つ表現行為は、<音楽>を「人間の生活の中での創造力への行動」としたケージにとっては変革されるべき事象以外のなにものでもなかった。そして親交あったダダイストマルセル・デュシャンの「二つの似た事物、二つの色彩、二つのレース、二つの形態といったものを識別する可能性を失うこと。互いに似ているひとつの物から他の物へ記憶の刻印を移すことのできる、視覚的な記憶を不能にするような状態に達すること。音についてもおなじ可能性、つまり脳髄現象」(デュシャン語録「音楽・彫刻」)というメモ書きにあるとおり「記憶の識別によってなりたつ関係=旋律などで音をとらえることを拒否する」(秋山邦晴)といった人間認識のなりたつ根源を揺さぶり、かつ撃つ、ケージの脈絡のない、初めて聴くような音の提示の実践。こうした核心は「人間の生活の中での創造力への行動」として<音楽>をとらえ実践する音楽家にとって真正のものであろう。「今日、音楽が何であるのか?芸術が何であるのか?を知ることは、実にむつかしい。わたしは、今日では、物事が何であるかは知らずにおいて、物事が真になんであるかを経験をとおして見出していくほうが、より稔が多いと思う。」とジョン・ケージは音楽とは何かと問われて答えているそうである。それゆえに「芸術による自己変革。テクノロジーによる世界変革」(ケージ)への冒険、実践は絶えず続けていかなくてはならないと言っているのである。そうしたことを念頭して、コンタクトマイクで引っ掻く事物が発する音、騒音を拾い上げ増幅してノイズの音響空間を果敢に開いた「カートリッジミュージック」に耳そばだてるのも意味のあることだと思われる。