yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

瑞々しく電子音響で「少年の歌」を歌うシュトックハウゼン

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             Stockhausen: "Gesang der Junglinge" Conclusion
             http://www.youtube.com/watch?v=TYZBvt5RRZw

1955年から56年にかけて、当時西ドイツ・ケルンにて世界に先駆け開設された西ドイツ放送局電子音楽スタジオにて制作されたもの。戦勝連合国の一員アメリカでなく敗戦国ドイツがエレクトリックミュージックの端緒をきったこと自体興味のあることであるが、コンピュータの発明、開発がアメリカであったことからすれば意外な感じがしないでもない。ところでこのシュトックハウゼンの初期の電子音楽が収録されたアルバムの「少年の歌」はそもそも実際には5群のスピーカーが5方向から聴衆を囲む空間音楽として制作されたそうである。ここに電子音楽が従来の音楽にもたらした大きな要素、<空間><音の場>、時間の多元性という概念が時代と共に音連れてきたということである。全方位空間からの音連れに切り開かれたもの、聴覚体験、音響世界の、未体験空間からの新時代到来として電子音楽の登場がもたらした最大の歴史的意義があるだろう。技術の発展と共に人間認識の構成要素、成立要件としての時間・空間の、つまりは<場>の転換をもたらし、耳=聴覚体験としての音楽、目=視覚体験としての映像などにもたらしたものの革命的な出来事は、現代の諸芸術の、いや実生活上にもたらしていることどもを見るだけでも肯けよう。そうしたことを不思議にも思わず当たり前にやり過ごしているだけである。死んだ人間の文字が後世に残り、映像が残り、音声が残る、言い伝えではなく自身の生誕の映像が残り、声が残り、時の移りを物として対象化する。いやそれ以上に、時間の後先、空間を加工、コラージュし未体験のバーチャルな世界を異和なく受け取ることができる。時空構造が先人とは決定的に違うはずなのに、分かりきったこととして大方はやり過ごしている。会社という組織に人間が全的に属するようになったのもたかだか150年ほどであるそうだ。そうした組織に属しての個人の存在態様が先人とどれほどの変容をもたらしているか、社会、価値、意味すべてにどれほどの変化をもたらしたか。とてつもない相転移であるはずなのに当たり前のようにやり過ごしている。しょせん人間は3世代の時空が世界のすべてなのだろうか。聖書にあるそうだが「先にあったことは、後にもある」。教訓も3世代の寿命、おなじことを飽きもせず繰り返すのも、そうした人間存在の存在態様ゆえなのであろうか。だからこそか、やり切れなさ、愚かさは常である。そんなことはともかく、アルバムでの「少年の歌」は当然2トラックの音源でしか可能でないのだから、それ用に加工されているということである。人声、それも少年の音声の電子変容であることもあってか瑞々しさの溢れた潤いを感じさせる。その電子変容が音声の音楽的処理をもってなされているせいか美しさをも感じさせる見事な電子音楽作品となっている。傑作といわれるゆえんであろう。もう一曲の1960年制作の「接触」も同様、彼の空間音楽のコンセプトによっている。実際のバージョンは4トラックの電子音響と、打楽器、ピアノを加えてのもので、60年ケルンでの初演は言うまでもなくセンセーションを巻き起こしたということである。(言うまでもなくレコードでの作品は2チャンネル用のものである。)彼唱えるモメント形式「まったく独立に存在するいろいろなモメントの自由気ままな結合から、音楽に豊かな多様性を与え、いきいきとした生命力を吹き込もうという考え方」(諸井誠)のもと、シュトックハウゼンがアイメルト博士との共同しての電子音響開発の結集として制作されたそうである。そうした極めて多様な技術を駆使しての電子変容がもたらす音色の斬新と、音の動きがもたらすダイナミズムと強烈さに耳目集めたそうである。これも歴史に残る見事な作品として評価されている。
参考までに下記ページあげておきます
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0099.html