yuki-midorinomoriの日記

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トム・ジョンソンの東洋的趣きを持つシンプルなメロディのミニマルミュージック作品

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             Tom Johnson - An Hour For Piano - 00:00-10:00 (Andy Lee on Piano)
             http://www.youtube.com/watch?v=dpcwg8XzKOk

トム・ジョンソンTOM JOHNSON、1939年アメリカ、コロラドに生まれ、モートン・フェルドマンに私的に師事。ミニマリストとして位置づけ1983年以降パリを拠点に活動を続けている。日本語のネットを覗いて得た情報はこれだけである。もちろん英語での自身のホームページが存在することは分かっているもののべつだん研究論文、プロの評論でもないゆえの言い訳として語学力の貧困は読解に難儀すること必定と端折っていることを断っておこう。とは言うものの作曲家・鈴木治行氏のネット記事を読ましていただいて参考とはしている。とはいえ私にはまったくこれだけの情報しかない作曲家である。演奏者はフレデリック・ゼフスキーFREDERIC RZEWSKI、多分彼の演奏作品ということが購入動機であったのではなかっただろうか。言われているようにこのアルバム、A・B両面にわたって演奏されるピアノソロは一聴して、東洋的な趣きを持つシンプルなメロディの緩やかな変化をもつミニマルミュージック作品であるとわかる。変哲のないシンプルなメロディからなる美しい音楽作品である。もっともスコアーを基に楽理的に分析すれば単純な中に複雑な、いや確かな論理性・構造の備わった上でのミニマルサウンドであるのかもしれないが。ここが音という表象でしか印象評価できない素人、聴くだけのファンの悲しさ悔しさでもある。ま、もっともプロだけでなくそうした一般の鑑賞ファンがいてこその作品成立であるのだから、聴く人間が作品成立のファクターでなければその作品を創造する作曲家とは何か。先ず音ありきではないのだろうか。その音の制度性云々はともかくとして沈黙、無音を音たらしめるのも音であろう。音によって沈黙も意味をなす。老子だったか「大音は声希に、大象は形なし」大きな音は聞き取れぬほどかすかで、大きな象(形)はその姿が目に映らないといっていたと思うが、無を無として、沈黙、無音を聞き取れぬほどの大音、濃密な音と人が感得するのは存在の、有のそこはかとない消息のうちにしかありえないだろう。なぜなら無は有であるわけはないのだから。だからこそ音楽、数学の絶望的なまでの純粋抽象の崇高なまでの絶対性に人は悩んできたのではないのだろうか。無限など考えると重力にとらわれた人間がどこへ行かざるを得ないかはカントールにみる悲劇を見ればわかる。人間にとっては現存在の存在性として、そこはかとない消息としてしか無を語れない。音も同様ではないだろうか。そんなことはともかく、このアルバムに収録されている曲名が「AN HOUR FOR PIANO」で実際一時間にわたって演奏されるらしいが、LPレコードゆえの物理的制限からか約54分となっている。遅めのテンポ演奏であれば1時間ということだろうか。しかしなぜ1時間なのか。こうした反復の、ミニマルミュージックの演奏時間、劇的高揚もないその終わりとは何なんだろうか。いやそもそもすべからく終わりとは消え入るような単なる恣意的なものでしかないかもしれない。人の生の突然の終わりのように。ポストモダニスト浅田彰は、人は雨が降るように死んでゆくといったそうである。


http://www.editions75.com/English/defaultenglish.html トム・ジョンソン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%B3 トム・ジョンソン