yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

DAVORIN JAGODICの、きわどく淡い隙間に一瞬垣間見える世界を聴く

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Nova Musichaシリーズと銘打って、1975年イタリアCRAMPSから出されたものの一枚、ジャケットに記されている文字すべてイタリア語のみというまったくドメスティックな指向のレーベルと見受けられる。それにロバート・アシュレイ、ジョン・ケージ、コーネリウス・カーデュと英語圏の現代作曲家の作品集がこのシリーズから出されているのに、よく分からない姿勢ではある。それらの作品集もイタリア語のみである。ここに採り上げたMARTIN DAVORIN JAGODIC(1935)はユーゴスラヴィア出身で、映像と音のシアトリカルな作品が多いそうであるが、それ以外のことは分からない。映像と音のパフォーマンスを志向する作曲家であるのかもしれない。私が単に知らないだけかも知れないが、評価が定まっていない現代音楽ではごくありふれたことではあるけれども、これもまたただひたすらに音を聴き、印象とした言葉を紡ぎだすだけという作業となる。音盤購入にいささかの出費をしているのだからせめて解説されている程度の情報もそうした費用回収に含まれて当然と思うのだが,了解できぬ言語とあってはそれすらも出来ぬとは釈然とせぬものがある。とはいえ、レコードに針を落としての最初に出くわす印象はいいものがある。弱い電子音の押しては引き、沈んでは浮く緩やかな変化が予感めいた雰囲気をかもし出す、いっしゅ通信音めいた音のイメージがするもので、このまま緩やかな起伏を持って突っ切ればいいのにと思ったくらいのいい雰囲気だ。そのうち、波打つ音や、鳥とおぼしき泣き声、船の機関音など具体音と人声、それらのテープコラージュとなる。メディアから流れてくる音楽等が混在する世界はちょうど、ケージの先のブログで採り上げたヴァリエーションⅣと手法が似ている。とはいえサウンドは当然違う。ケージのアメリカ的晴天の軽佻浮薄とでもいったポップ感覚ではなく、ヤゴディックのほうが曇天ヨーロッパといた風情であろうか。リュックフェラーリのコンクレート世界にも通ずる、きわどく淡い隙間の世界が一瞬チラット垣間見えるといったところだろうか。激する部分が過ぎ去って、徐々に消えては浮かびでるシンプルな通信音めいた電子音が作り出す雰囲気がひじょうに生きてをり、しずかな引き締まった世界を感じさせる。「Tempo furioso」とタイトルされている両面トータル43分ほどのミュージックコンクレート作品。