yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

MEVのALVIN CURRAN参加する音なひの気配に感応する即興演奏

イメージ 1

1960年代後半から電子機器を使ってのグループ即興演奏を展開していた「MEV」Music Electoronic Viva。その創設メンバーの一人としてフレデリック・ゼフスキーは夙に知られたことであるが、このイタリアICTUSレーベルによるトリオでのライブ即興演奏アルバム「Real Time」に参加しているアルビン・カランalvin curranもその創設メンバーの一人である。サックスはイギリスのエバン・パーカーevan parker、パーカッションはイタリアのアンドレア・センタッツオandrea centazzo、アルビン・カランはアコースティックピアノ、トランペットも使ってはいるが、シンセサイザーによるライブエレクトロニックパフォーマンスでおもに参加、随所で効果的に間をつめるサウンドに冴えをみせている。鬼面人驚かすような強烈な雑騒音でなく、インスピレーションもたらし、誘い呼び込む、時宜を得たエレクトロニックサウンドを放っている。どんな芸術にも共通するのであろうが、<間>合いの取り方に巧みの才が要求されると聞く。<間をつめる>とよく言われるが、<間をあける>には肯定的な意味合いはない。当たり前であるが、間があくとは散漫ということであろう。<あく>が飽きるにも通ずるのかどうかその限りではないけれど。それには推し量りがたい、了解しがたい、関係付けがしがたい、といった意味合いもあるのだろう。そこには意識的な精神の働き、働きかけ、はりつめがない。編集もなく日常を撮ったままのビデオのなんとも間延びした現実の実相に誰しもあきれ驚く。いわゆるそうしたことは<穢・ケ>としての日常ということでもあろう。だがそうした冗長性、リタンダンシーは非常に大切なことで、それがために自由度適応度は確保されるのだから。人間の話し言葉の冗長性、リタンダンシーゆえに多義性が確保され、誤解が生じ思わぬ展開と相成る。それにたいし、間をつめることによる、一瞬にして浮かび上がって突き出される新鮮な輝く濃密な場の動向に、人は何ほどかのことを感じ取る。かいま見える、そこにそこはかとなく訪れるもの、神の<訪れ>はもともと<音なひ>という。音とともにそれはやって来るということであろう。間をつめた音の、音連れに顕れ出るものの気配にそばだてる、そこに即興演奏の醍醐味があるのだろう。相変わらずの内向するエネルギーの奔流に冴えをみせるエバン・パーカーのサックス、打楽音のコンフィギュレーションに長けたパーカッションのアンドレア・センタッツオ、そのつど二人のインスピレーションを喚起するアルビン・カランのライブエレクトロニックサウンド、よくできた即興演奏アルバムとなっている。もちろん1977年イタリア・ローマでの長時間のライブから抜粋編集してのレコードである。