yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

エヴァンパーカーの<虚・ウツ>と化す凄まじいソプラノサックスソロ

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この遊び<スサビ>に荒んだイギリス、エヴァンパーカーEVAN PARKERのソプラノサックスに息つめて耳そばだてることは、精神一極緊張のためにもいいことだ。凄まじいの一語に尽きるとまで言い切りたくなるほどの凄さである。楽器をものする人たちが、どのような印象をこのエヴァンパーカーの奏法に感じるのかは知らないが、薀蓄なんぞどうでもいいぐらいのテクニックであることぐらいは、ドシロウトでも音を聴けばわかろうというものである。内的必然としての技量であるからして感動を呼ぶことは言うまでもないだろう。単に上手に吹くためのという技量ではない。上手、名手なんぞ自称、他称大げさに言えばごまんといることであろう。仲間褒めは業界の掟でもあろうし、表現には上手なぞ必要条件以上ではなかろう。お代はいただけても、それ以上の賛嘆、賞賛、拍手喝采、名誉は当然のものではない。そうしたものはテクニック、技量を超えた向こうから音連れやってくるのであろう。
エヴァンパーカーのソプラノサックスはまさしくその世界である。このソロアルバム、イギリスINCUSレーベル「MONOCEROS」(1978)はテープヒス、ノイズを排除して、息遣いや、吹きもれるかすかなさわりや、サックスの原音に近づけるためダイレクトカッティングの技術を駆使して収録されたとコメントされている。そのためか奏者の楽器とのやり取りに生じる微弱な雑音、さわりもすべて拾うことでより迫真のソプラノサックス奏音の奔流となっている。音の原基に迫らんと鬼気せまる強靭な集中持続するソプラノサックスソロに息つめ、緊張に心締め上げられることであろう。息も継がずとはこのソロアルバム「MONOCEROS」のソプラノサックスソロにこそふさわしい。一度耳にすればパーカーのサックスと思わせる独創のスタイルを彼もまたもっている。それがために足かせとなるようなスタイルではない。
ところで正直私は世阿弥の芸能論は胡散臭く思っている。修辞でしかないのではとも思っている。気の利いた修辞、言葉がとびでてきはするが、何かうそ臭い。私だけかもしれないけれど、かっこが好すぎるのだ。無知をさらけ出すことになるかもしれないので慎もう。
そうした高邁な論説はともかく、エヴァンパーカーには<論>は無縁であろう、ひたすら吹き続け、惚ける、それがすべてで、アルファーでオメガである。虚と化す一点にすべては満たされるのであろう。それになだれ込んでくるものこそ真正であろう。神は<虚>、<ウツ・空>にこそに宿る。ウツワ、器量とは充填の余地ある空無に己を極限する事であろう。無に帰すとはこの謂いではないだろうか。<空><虚>のウツワと化すエヴァンパーカーの<スサブ>サックスソロに、ひとは感じ入り、音なふ(音訪う)ことは確かなことと思われる。