yuki-midorinomoriの日記

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<なしくずし>の世に厳粛たるべき極左コーネリアス・カーデューのピアノ曲

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             Cornelius Cardew - Father Murphy (1974)
             http://www.youtube.com/watch?v=QhmaatIpPzk&feature=related

中国で「1960年代後半から1970年代前半まで続いた政治・社会・思想・文化の全般にわたる改革運動」(WIKIPEDIA)の文化大革命紅衛兵運動の思想浄化の嵐はベトナム反戦運動のたかまりのなかで世界の国々にイデオロギー政治に大きな影響をもたらした。今思えば噴飯物であるが歴史とは振り返ってみればそうしたことの累乗であろう。決して人間は賢くない、すべて分かって行動しているわけではない。上等ではないということだろう。誰のことばか忘れたが、分からぬままに(無知で)生きているのが最大の驚きであるといったそうである。個々が理性的であっても、群れとしての人間が考え、行動する時とんでもない錯誤を狂信的に疑うことなく行う。そうした個と集団のよじれた関係をさまざまなところから探求されはしている。複雑性の最たるものが集団としての人間存在、その行為であり、とりわけ政治であろう。政治は決断であり、その集積である。小さな家族単位から大きな世界政治にいたるまで、すべてその位相・構造はちがっている。国内が平安であっても世界の突発事態に巻き込まれゆらぐことがしばしばなように、まったく明日をも知れぬ断崖にあるともいえよう。批判はしても、決断せぬとも生きていけるのがジャーナリズム、マスコミであり、その罪状の数々は戦争賛美、翼賛から戦後の重大な政治課題などの論調のなかに見られるだろう。許認可制に守られ、税制優遇を受けながら高給取りの最たる新聞人、ジャーナリストたちの自らの安泰の高み(我が身の棚上げ)からするまことしやかな社会批判、政治批判などを真に受けてはいけない。眉に唾すべきであろう。集団の執り行う政治ほど解らぬ世界もない。あのマルクス・レーニン主義を基底に置く共産党一党独裁での社会主義国家。その市場経済とは何か?これほど訳の分からぬ事態はない。また中南米、アフリカなどの後進国での改革革命の政治イデオロギーの支えが未だにマルクス・レーニン主義毛沢東主義であることの意味など、中国の市場経済的躍進以降、知識人は総退陣、ダンマリである。こうした事態をまともに説明してくれた知識人を不勉強のせいもあるだろうが、私は知らない。なしくずしの世界である。既成事実を前にただ驚き、追認よろしく口をつぐむだけで、ロマンに死んでいった人々への無念への想いのかけらもない。要するに経済がよくなり、政治が安定すればなんでもいいという、<なしくずし>に落ち着いたのだろうか。だからこそというべきなのだろうか、先の文化大革命紅衛兵運動のおぞましさへの言及もなく、おおかたが軽くいなす歴史的評価の打ち止めとなっているのであろう。反戦、学園闘争の渦中毛沢東語録を手に政治にのめりこんでいった人々、知人もいた。ここに採り上げたコーネリアス・カーデュー・CORNELIUS CARDEW(1936~81)もそうした政治ロマンに逝った現代音楽作曲家である。まさに彼こそがマルクス主義毛沢東主義を確信し、極左グループ・英国革命共産党の共同創設者の一人として名を連ねていた。シュトックハウゼンに師事し前衛音楽に身をおいてのスタートであり、自由即興演奏集団AMMでの活動は活発なものがあった。がしかしそうした政治的信条から前衛音楽を棄て、「伝統的なイングランド民謡を引用して調的な様式によって数多くの歌曲を創作した」(WIKIPEDIA)。このようにこのアルバム、イタリアCRAMPSレーベル現代音楽シリーズの一枚「four principles on Ireland and other pieces」(1974)のピアノ曲すべては調性による、また民謡をベースに親しみやすいメローディ性に富んだ美しく愛らしい政治プロパガンダ小品集となっている。全文イタリア語なのでコメント解説の内実は皆目解らないが、曲名が「soon(there will be a high tide of revolution in our country)」であり「long live chairman mao」であり「revolution is the main trend in the world today」であることで曲調が察せられよう。とりわけ「sailing the seas depends on the helmsman」(1’33”)の超ミニ作品には涙腺緩ますものがある。ピアノ演奏はカーデュー本人である。『長らくの宣伝工作に献身し、しばしば最早作曲家ではなく政治家としての活動のほうが多かったカーデューは、突然政治団体街宣車によるひき逃げ事故の犠牲者となってこの世を去る。今でも、「彼は国の手で消された」と信じるイギリス人は多い。』(WIKIPEDIA)輪郭のはっきりとした、政治ロマンに逝った人生として<なしくずし>の世に生きる私たちは、彼の思いに厳粛たるべきだろうか。そうしたことを想いつつの一枚である。