yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

現代音楽作曲家、水野修孝の遠慮がちなビッグバンドジャズ

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ビッグバンドジャズは経済的に維持するのが大変と聞く。最近の動向はまったくといっていいほど知らない。何とはなしに、ブログで採り上げるのを機にネットで覗くと先の経済的理由以上にシンセサイザー機器の飛躍的発展により極めて少人数でボリュームある多彩な演奏が可能になったのが最大の要因だと指摘している記事があった。制作費との兼ね合いから、同様の効果が得られるとなれば当然のことだと納得もしてしまう。またダンスミュージックとしてのビッグバンドジャズもその時代はすぎっさたのかも知れない。先のネットでは未だにデュークエリントン、カウントベーシー以上に聴かれているビッグバンドは正直ないだろうとまでいっている。
ここに採り上げた「JAZZ ORCHESTRA 75」と銘うたれたビッグバンドジャズは、現代音楽作曲家、水野修

(1934)作曲による宮間利之とニューハードおよびゲストソロプレーヤー(中村誠一、森剣治、渡辺香津美)の演奏のものである。
とりたてて現代音楽に見られる新規な試みをしているわけではなく、むしろオーソドックスな、いやオーソドックス過ぎるジャズサウンドといってもよいだろう。
B面ではロックの強烈なビートにのって疾走炸裂するパワージャズを展開している。この頃の直近から彼、水野修孝の作風が大きく変わっていったと一般的に評されているが、さもありなん。
先にブログで採り上げた八村義夫とのカップリングされていたのがこの水野修孝であった。
「ピアノのための仮象」(1967)と「声のオートのミー」(1964)の2作品が収録されており、いずれも響きを探求重視したいい作品である。1958年、東京芸大楽理出の小杉武久、塩見允枝子らと<グループ音楽>を結成し前衛的な活動を展開したとある。
そうしたことから正直私も「JAZZ ORCHESTRA 75」には期待はずれの印象を持ったものであった。作品それ自体ではなく、彼のそれ以前の諸作品に悪くない印象を持っていただけに、現代音楽作曲家の手になるものであり、またヨーロッパフリージャズのとりわけドイツ「グローブユニティー」に見るようなイメージを持っていたせいでもあった。コレクティブなフリーインプロヴィゼーション展開に現代音楽スパイスの加味を期待していたのだ。先の現代音楽作品収録のレコード解説(佐野光司)文中に水野修孝の発言からとして彼の2面的な音に対する構え方「一つは音たちを発生させ、コントロールしようとする方法家としての水野と、いま一つは、いかなるコントロールをも超えて息づく、生きた音達の生態に聴き入ってしまう水野とである。だから水野にとっては作曲とは、音達を無秩序(カオス)と秩序の相関関係に置くことであり、音達のコントロールの方法論は、いかにして音達がそのコントロールを突破して自発的に生きるようになるのか、のための方法論でもあるのだ。」とコメントしている。まさに「声のオートのミー」こそがそうした方法意識による成果ともいえよう。「一つ一つの響きじゃなくて・・・打撃のアタックがわからなくなるほど、少しづつずれながら猛烈なうなりを起こす。つまりどよめきになるような響きに興味がある」と構想中として、音楽のクラスター的響きのイメージを語っている。このイメージをビッグバンドジャズの音圧咆哮のウネリに期待していたのだ。そうではなかったのが私にとっては残念であった。とはいうものの、十二分に優れたオーソドックスなビッグバンドジャズの音圧たっぷりのサウンドを浴びる快感をもたらしてくれる作品であることは間違いなく確かなことである。