yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

NEW JAZZ SYNDICATE今いずこ

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このニュージャズグループ「ニュージャズシンジケート」NEW JAZZ SYNDICATEが今現在どのような発展の存在形態にあるのか、果てまたすでに消滅してしまっているのかすでに20数年前よりこのかたレコードという音盤から遠ざかっている身にとっては知る由もない。音盤の所有鑑賞はいたって金のかかるもので、一般的にラジオ番組から流されるものは、言うまでもなく人気受けの度合いが尺度基準であってみれば極めて限定されたものとならざるをえないのも無理からぬ話ではある。ポップスの世界は特にそうである。現代音楽はNHK・FMの健闘もあり少ない時間枠ながらも聴く機会はあるが。それゆえに、いわゆる一般受けのしないジャンルのものは、本を買って読むごとく身銭きっての鑑賞とあいなる。それでも仕方ないことなのだと思う。資本投下もなくタダで得られる非主体的な知識なんぞでなにほどの物が得られよう。そこいらの八つあん熊さんのラジオ、テレビからタダで仕入れた知識で政治やら世相を語る床屋政談の底の浅さと似たような物であろう。私は思想評論家吉本隆明の<大衆の原像>なる概念もカッコつきでしか評価できない。わけの分からぬ大衆に歴史の真を置くほかない知識人の悲しみをこそ慈しみをもって見る自己限定を大事にしたいと思う。必要以上に<大衆>に媚びる必要などないのだ。大衆が選択したからといってそれが真であるとはいえないと同じく間違いでもない。つまりは極論すれば歴史のなり行くさまに真なるものなどはない。個が生きるための確たる意味などもない。人間歴史に唯一不二の普遍な目的、意味などないだろう。人はその時々そのつど最善、最良と思う選択をするだけだ。とはいえ意味、価値に囚われての存在が、意識、観念を持つ人間の本質的な存在様態である限りそれから逃れられようもない。言葉で語り始めてこのかた<人生とは>の問いが人間に尽きぬどころか同じことの繰言であることが示していよう。ホワイトヘッドは「全西洋の哲学はプラトンの脚注にすぎない」と言ったそうであるが、同じように、誰かがすでに言ってしまっている。すでに<生>を問う以前に「哀れな役者」(シェークスピア)としてそれなりにヒトは確かに生きてしまっているのにだ。そのように、人間は同語反復、トートロジーにその無としての存在根拠があるとしなければならないのだろう。人生に苦楽がつきものであることは言うをまたない。そのようなことは等しく与えられている。問題は<人生>ではない、<存在>である。メタ次元でしかそうしたことは脱出できない。言うところの不完全性の定理だろうか。その系においては真なることを証明できないということなのだろう。そのようなとんでもない脱線は兎も角、音信不通と言いつつもいったいどうしてこのジャケット全部英文紹介のアルバムが手元にあるのかさえ記憶に定かでない。しかし今聞き返しての印象は思いのほかいいものであった。法政大学の学生と個人参加によるメンバーとで74年結成とあり、以後月例コンサートが実施されている由。私が所有している限りでの3枚のうちの最初のものであり、77年録音とある。豊住芳三郎からの名実共の援助があるともうたっている。破綻なくメリハリもあり緩徐楽章などもだれることなく、全体的に奔放になり過ぎもせず程よく抑制され従ってソロ部分が生きている。よくできた聴かせるオーケストラジャズとなっている。音楽文化の裾野の成熟の果実といえるのだろう。