yuki-midorinomoriの日記

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厳しくも美しいシュトックハウゼンのピアノ曲

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   Pollini_KlavierstueckeⅩ(Karlheinz Stockhausen)
  http://video.google.com/videoplay?docid=-8530551948232272597&q=%28Karlheinz+Stockhausen


当たり前だけれどもシュトックハウゼンと、ブーレーズとは違うものだ。音の緻密さと言ったらいいのだろうか。一音一音のもつ位置とでも言ったらいいのだろうか。ブーレーズピアノ曲には全体の構成、枠組みのなかでの、言い換えれば構造のなかでの音の位置がはっきりと位置づけられた構築の美を感じさせる。ドイツといえば、論理の国というイメージが強いが、ブーレーズとの対比で見れば、どちらかといえば、フランスのブーレーズのほうが論理、構造の人のように聴こえる。シュトックハウゼンはむしろ感性の人と、私にはこのピアノ曲を聴く限りでは印象深くした。ⅠからⅣ番は1952年から53年の作品であり、それらは「広い空間の中を、強度の変化を自由にもった音達が、大きな跳躍をしながら飛びかうのだ。」音程の跳躍が帰結するワイドレンジなピアノのダイナミズム。「古典的な意味での旋律も、主題も、また主声部も副声部も、存在しないし、定型的なリズム、拍子もない。あるのは、(音の)群の変化がもたらす情報量の増大と減少であり、そこに我々は、思いがけない美しさ、さまざまな予感、緊張等に満ちた時間を体験するのである。」(佐野光司)。ⅤからⅩ番は後にデヴィッドチュードアに献呈されたそうであるが、54年から最終稿61年と長期に亘っている。もっとも大部分は54年中に完成していたそうであるが未完のまま7年間ほど放置されていたそうである。ともかく、ここには前期の諸作品とは音色上での変化が聞き取れる。またダイナミズムが後退しているのである。比較してのことだけれど、流れてゆくようなメロウな印象がある。もちろん意図しての探求の結果とされている。シュトックハウゼン自らのコメントであるそうだが、ⅠからⅣは<群作法>、ⅤからⅩは<可変形式>演奏間の不確定性の作品ということである。そのようなことはともかく受ける印象が違うことは確かである。最後の(ⅩⅠ)は56年完成57年ニューヨークでデヴィッドチュードアによって初演され、これは<多義形式>不確定と確定のものとされている。説明例として「楽譜は一枚の大きな紙に、不均等の長さの19の楽譜の断片(群)が書かれており、奏者はこの群のうち、アトランダムに眼にとまったものをどれから弾き始めてもよい。最初の群はテンポも、強度も、アタックも奏者の自由な創意にまかされる。それを弾き終わると次にアトランダムに眼にとまった群を弾く。各群の最後には次に奏するぐんのテンポ、強度、アタックの指示があって、以下奏者に残されるのは選択―それもアトランダムな―の自由だけとなる。しかし各群の選択が自由であるから演奏ごとに曲は変化し、同一の演奏は確率的にはほとんど起こりえない。」(佐野光司)。こうしたことから、演奏者の自発性、創造性が偶然性の下に発揮されそのつど作品化されるということであろう。当時のミュージックセリーエールがぶち当たっていた諸問題への究極のシュトックハウゼンの解答、概念提示の成果であった。名手アロイスコンタルスキーのピアニズムに倍化されてもいる、そのエキセントリックなまでの音響空間形成の鋭くはりつめた意志は、やはり感性の人に相応しいピアノ作品をものしているといえるだろうか。もちろん緻密な論理、思考に裏打ちされての感性世界であることはいうまでもないことだろうが。ブーレーズピアノ曲シュトックハウゼンピアノ曲ともども50年代の音楽史を飾る名作といわれるだけあって厳しくも美しい音の世界を堪能させてくれる。耳傾けるべし。