yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

1961年ダルムシュタットの夏期講習で演奏録音された「NEW MUSIC FOR CHAMBER ORCHESTRA」

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私は今まで何を聴いてきたのだろう、これは新鮮な驚きであった。年を経て聴き返し、かくも意外な思いに遭遇するとは。如何にいい加減に聴き流していたことだろう、流れを追うことに精一杯だったのかと忸怩たる思いがする。感性の研ぎ澄ましが年とともに増すわけではなく、人生を折り返し、先短いというなんとはなしの切迫がそうさせているのかもしれない。このアメリカMAINSTREAM現代音楽シリーズの「NEW MUSIC FOR CHAMBER ORCHESTRA」とタイトルされたアルバムを手に聴き返しての先ず一等最初の印象がそうしたことであった。比較的全曲5分程度のコンパクトな作品で構成されたアルバムであるが、凄いものである。A面1曲目は、ギリシャ、ヤニスクセナキスIANNIS XENAKIS(1922)の「ACHORIPSIS」,2曲目はイタリア、アルドクレメンティALDO CLEMENTIの「TRIPLUM」,3曲目はスエーデン、ボ・ニルソンBO NILSSON(1937)の「FREQUENZEN」、4曲目はドイツ、シェーンベルク(1874)「DREI KLEINE STUCKE」、B面1曲目はポーランド、ウラヂミールコトンスキーWLODZIMIERZ KOTONSKI(1925)の「CANTO」,2曲めは日本、高橋悠治(1938)「SIX STOICHEIA」、そして最終3曲目は、先のスエーデン、ボ・ニルソンBO NILSSONの「SZENE Ⅲ」。このうち4曲が、ブルーノマデルナBRUNO MADERNA、トフランシストラヴィスFRANCIS TRAVIS指揮の室内アンサンブルによって1961年ダルムシュタットの夏期講習で演奏録音されたそうである。私が若き日に興味を持って追っていた音楽家たち、このブログで採り上げる作曲家、演奏家たちは、みんなもう軒並み70歳を超える年齢とないっている。団塊の私も同様に社会からリタイアを宣せられるような年齢にたち至ったのだから当然といえば当然だ。そんなことはともかく、クセナキスはやはり特異性、独創性でやはり際立っている、単に数学的論理性、抽象性に拠ってたつ方法とかといったものではなく、そのなかにでさえ土俗的な根っこをしっかりと握って離さない。ここが特異な魅力として惹きつけるのだろう、どのような作品を聴いてもそれを感じる。たまたま以前車中のラジオで彼のハープシーコードのソロ作品を聴く機会があったが、まるでコンピュータープログラミングで奏でられたような印象のものであったが、人知を超えたようなその音の群れは不思議なエネルギーに満ちた印象を感じさせるものであった。この「ACHORIPSIS」も奇妙な人間くささを感じさせる独特の世界の印象深い作品である。それに比して、クセナキスを師とする高橋悠治には、スマートさが純化されて無印の世界との印象が強い。才走った人の根の定まらぬ漂う作品といえばいいのだろうか。ボ・ニルソン、これは凄い。とりわけ「FREQUENZEN」は、クセナキスのそれと同じような、強い確かさを感じさせるいい作品である。ついでに言っているのではない、感性に根が張っている。またポーランドのウラヂミールコトンスキー、ポーランドには、ペンデレツキー、ルトスラフスキーらに代表される優れた作曲家がいるが、この作曲家も、彼ら同様、奥の深さを感じさせる、精神性をしっかりと握って離さぬ確かさがある。この国の複雑な歴史ゆえなのかどうか、そこは一言では言えないのだろうけれど。ともかくすべての短いながらの作品ではあるが、驚きをもって聴き返した1枚であった。