yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

入門を手招きするブーレーズ、ノーノ、シュトックハウゼンの『現代音楽の創造者たち』

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現代音楽へ足を踏み入れてみようかと思っている人達には、差し出がましいようだけれど、ストラビンスキー、バルトークから入るよりは、1950年代革新の旗手として音楽史に華々しく登場したこの三羽烏ブーレーズ、ノーノ、シュトックハウゼンからいきなり、あるいは、シェーンベルク、ウエーベルンから入ることを進めたいと思う。とりわけこの『現代音楽の創造者たち』とタイトルされたこのアルバムを聴かれることを是非お奨めしたく思う。別に入り口に決まりの途はないのだけれども。もしこのCD化されたものがなければ以下の作品の収録された個人集を薦めたく思う。
カール・ハインツ・シュトックハウゼンコントラ・プンクテ」、ルイジ・ノーノ「ガルシア・ロルカのための碑銘 第二部」、ピエール・ブーレーズ「フルートとピアノのためのソナチネ」、アンリ・プスール「多種の音響のための<リム>」、どれもこれも秀作品である。
先のあまりにも音楽史上偉大なストラビンスキー、バルトークの二人から入ると、彼らが持っている調性の強い名残から抜け出すことは難しいだろう。いや逆で彼らは音列技法に色気を出した新古典作家というほうが正しいのかもしれない。悪く言えば、折衷から来る中途半端性、よく言えば時代の制約ということだろうか。そうした折衷世界では無調が持つ表現のダイナミズムの、それこそ真に現代音楽の醍醐味を味わうことが叶わず、むしろ調性の中で音楽の麻痺的な甘美な世界の愉楽に惚け、浸るだけの鑑賞の徒へと帰ってゆくことになるだろう。
ところでオスティナートの多用で生命力に満ちた作品をものしている松村禎三は、長い闘病生活で鬱勃と雌伏していた頃に「12音音楽って言うものを聴いて、こんな風にエネルギーのない痙ったものならば、ぼくにとって音楽は無縁なものでもいいとさえ思ってたね。」と語ったそうである。さすが創造的作曲家は鼻っ柱が強いものだ。話がそれたが、
新古典主義作曲家を好む人はあまり聞いたことがない。別に調性世界が悪いといっているのではない。それ以外世界がないと、また認めないという狭量をこそ問題だといっているだけである。バロックを聴きながら現代音楽を聴きもする人はいるであろう。
電子機器が導入されたロック、ポップスシーンなどにノイズが入り、実験的サウンドを採り入れ映像パーフォーマンスも当然の如くなされている現代にである。音のマチエールの多様化、開発、創造があらゆる領域でおこなわれているにもかかわらずである。調性世界に堅固に横たわるメロディという記憶に縛られた感性につゆほど疑いを持たぬ精神世界とはなにか?惰眠を誘う強固なまでのこの調性音楽、メロディの拘束性とはいったい何か?科学技術は流れ去る時をとどめ、再生、繰り返すことを可能にした。テープ音楽、映像然りである。
もちろん書物もそうである。古来記憶を司るに秀でた人間、一族は権力を有する、あるいは寄り添う存在であった。日知り=聖でもあった。だがそれは流れ去り再生不可能な、いにしえの事柄の記憶を保持し続けることが出来る類い稀な心的記憶能力、秘匿に継承される記憶術ゆえであった。祭事を以って記憶が再現伝承される。たえざる始原回帰でもあっただろう。しかし人性としての記憶能力は科学技術、文化の発展に伴いその地位を落としてきた。
その極限の姿が現代の科学技術の記憶外部化の姿であろう。
無限ともいえる繰り返しを可能にしたがゆえの日知り=聖の地上への墜落、無力化である。記憶の聖性、特権は失われつつある。文字の聖性、ことばの聖性、音の聖性、すべて低落しゴミともなりつつある。現代音楽の、とりわけアヴァンギャルドの作品などを聴かされるとそのように思えてくる。
ともかくそうした流れに現代音楽、とりわけ無調世界の、たぶん記憶に本質を持つだろうメロディ、調性からの逸脱のなみなもとがありはしないだろうか。
今ふと思いついたのだがメロディとはほとんど人間の存在生理である一種のホメオスタシスだろうか?確かに精神に安穏をもたらす堅固なものだとはいえる。
エントロピー(乱雑性、無秩序性の増大)の破滅的増大にひとが歯止めをかけ、ノイズにまで美を手繰り寄せ、組織する美への強い意志、そうしたものの音楽・構造としての無調の美的世界。なにやら訳が解らなくなって来たのでやめよう。