yuki-midorinomoriの日記

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自己表現ではなく自己変革と語るジョン・ケージの『INDETERMINACY』

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      Cage: "Indeterminacy", Part One http://www.youtube.com/watch?v=AJMekwS6b9U

ジョン・ケージ音楽史上の革新のコンセプトである不確定性、チャンスオペーレーションズが招来するに至るさまざまな出会い、出来事をケージが直接語り、あいま合間にデヴィッド・チュードアが例の如くさまざまなエレクトリックノイズなどを挿入するパフォーマンスで制作された2枚組みのアルバム『[http://en.wikipedia.org/wiki/Indeterminacy_(music) INDETERMINACY]』。ヒアリング能力の欠如はなはだしい断片的にしか理解できない私の半解の説明よりも以下の対談記事でケージの思考の一端に触れる方がためになるだろう。ちなみに松岡正剛34歳のときの対談の記録である。


松岡――― ミルフォード(グレイブス)はケプラーの法則や原身体律のようなものをドラミングに応用しているようですね。北アフリカの民族ドラムが心臓の三対二のリズムと一致していたことで確信を得たようです。彼はポリリズムではなく、ポリメトリックでなければいけないと主張する。

ケージ――でも私はそういったアイデアには興味がない。むしろ「間」のほうに関心がある。
音そのものに意識がいったり音はどうあるべきかという問題を考えてしまうと、「間」を忘れてしまいかねない。私の考えでは、音楽理論において重要なことは「関係性を好む」ということです。関係そのものを考える必要はない。関係そのものはいずれにせよ存在するのだから、考えないほうが関係も自然になる。ミルフォード(グレイブス)はいい方向で考える人ですが、ほとんどの人はバカな方向で考える。鈴木大拙は「無の思考」といった。考えないということはバカになることではない。意識ははっきりしているけれど、思考は無であるという状態だってある。「ニヒト・ヴァール!」が必要です。鈴木大拙の話では、頭の構造は完全に円に近い構造で、自己は片側の二つの平行線を形成している。自己は他の創造物から自分を切り離すことも自分を解放することもできるのです。この人(ミルフォード)はおそらく自己を夢や無意識のほう
に解放しようとしているのではないですか。

松岡―――いや、そうでもないでしょう。

ケージ――しかし、鈴木がいっているのは、自己を一度も閉じないで解放させるのが禅の方法だという
ことです。それによって全創造がその人の中に流れる。私はこの講義の内容を貴重に思って、内側に向かう座禅をしたり無我夢中になったりすることよりも、チャンス・オペレーションズを通して外に向かうことにした。自己管理よりも外に放ったほうがいいのです。だから私は、芸術を自己表現ではなく自己変革と考える。いずれにしても、完全にまわりきって円になればいいのです。

松岡―――完全円というより、ちょっと隙間のある円のほうがいいですね。

ケージ――おっ、それはいい着眼です。ある禅僧が言いました、「悟りを開いた現在、依然と同様に惨めである」。

松岡―――それは禅にたくさん出てくる境地ですね。「いつも同じ」という……。

ケージ――そうです。

松岡―――パーソナリティやオリジナリティは芸術にはもう不必要なんですよ。

ケージ――オリジナリティは好むと好まざるとにかかわらず出てくるものですからね。ルネ・シャールというフランスの詩人がいますが,彼は「ひとつひとつの行為はヴァージンな行為である。くり返される行為も初めての行為である」と言う。仏教にも、われわれのように知覚するものも、コップのように知覚しないものもいずれも宇宙の中心にある、という考え方がありますね。ひとつひとつがもともとオリジナルなんです。二本のコカコーラのビンも同一ではないということと同じことです。

松岡―――「宇宙の中心」である必要はないんじゃないですか。

ケージ――どうしてですか?

松岡―――「宇宙のはしくれ」の方が粋ですよ……。

ケージ――すべてが?

松岡―――「宇宙中心」を仮想して、それをいっさいの事物の方へ持ってきて当てはめるのは、
やっぱり地球に中心を見ていることとおなじになりかねません。

ケージ――端っこにいる方がいいですか。

松岡―――夕涼みがしやすいでしょう。

ケージ――それもいいですね。そうするとアイデンティティを認めないということはどうですか。

松岡―――素粒子にはアイデンティティがないように、われわれにだってないとおもいますね。一見、
これこそおなじだとおもわれる記号的世界にだってアイデンティティはない。そこに「場」がついてくるからです。たとえばletterという字をタイプライターで打つと、eとe、tとtという二つのおなじ文字が見えますが、その文字を紙ごとひとつひとつ切ってみるとうまく入れ替われない。場の濃度が変わってくるからです。われわれの身体の細胞だって一ヶ月もあれば全部別のものになっています。きっと、断続的連続においてのみアイデンティティは生じてくるだけなのです。僕はそれを「差分的存在学」というふうに考える。電光ニュースのようなものです。

ケージ――デュシャンがいったことで、「記憶に焼きついたものを他のものにそのまま写してはならない」という言葉があります。ひとつのtを見て、次にふたつめのtを見るとき、最初のtは忘れなければいけないんじゃないですか。

松岡―――電光ニュースとはそういうことです。


                         松岡正剛 『 間と世界劇場 』 より



1959. Indeterminacy: New Aspects of Form in Instrumental and Electronic Music. Ninety Stories by John Cage, with Music. John Cage, reading; David Tudor, music (Cage, Solo for Piano from Concert for Piano and Orchestra, with Fontana Mix). Folkways FT 3704 (2 LPs).



ジョン・ケージ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B8


   参考までに  http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0887.html 
          http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A5%E7%A5%F3%A1%A6%A5%B1%A1%BC%A5%B8
          http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0057.html