yuki-midorinomoriの日記

イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽

「現実、それは単に正午の健忘症にすぎない。」と語るサルヴァドール・ダリ

イメージ 1

               Psicoanalísis de Dalí
               http://www.youtube.com/watch?v=e-3wLIB3lDI&feature=related

何らかの音のパフォーマンスが収録されているものと思い手にしたこのレコード。まったくハズレであった。内容に関する何のコメントもないデータだけというシンプルさ。見開きも、背表紙もすべてダリのポートレートである。ダリは生まれはスペインであるけれども、若き日、詩人ポール・エリュアールの妻であったガラに出会い彼から奪い取ることになるパリ。<美は、われわれの異常性の意識の総体に他ならない。『美は痙攣的なものであろう、そうでなければ、存在しないだろう』>と「ナジャ」最終章で言った総帥アンドレ・ブルトンマン・レイルイス・ブニュエルシュールレアリスト達との交友をもったパリで活動していた。その所為もありフランス語でインタヴュアーの問いにあの特徴的なだみ声で応え語っている。私には、英語も中途半端なのにましてやフランス語など分かるはずもない。以前、それもたぶん四半世紀も前だろう、NHK教育テレビでダリの特集があり、映画の『ピアノレッスン』のようなさざなみ打ち寄せる海中に浮かんだピアノ演奏のパフォーマンスがえらく印象的であった。何事かと驚いて鳴くことしきりの仔猫を乗せたそのピアノが潮が満ちるにつけ浮き上がり沖へと流されてゆく映像は鮮烈であった。そうしたパフォーマンスでの音でも入っているのかと思いきやダリのわけ分からぬだみ声が聴こえるだけであった。とはいえサルヴァドール・ダリは我が若き日々の精神の一部を占めていたことは確かである。奇矯に韜晦するスカトロジックな奇態さと崇高なまでの宗教性に心惹かれてはいた。このレコードを棚から取り出したところで思い立ち、ダリの芸術論集『ナルシスの変貌』(国文社・小海永二、佐藤東洋麿訳)をパラパラと拾い読みしているうちに次の文章に目がとまった。<すべてを考え合わせると、非常に近い将来に、現実は、単に思考の衰弱と停止の状態としてしか、従ってまた、覚醒状態の不在の瞬間の一連続としてしか見なされないようになる、と思われる。ここで私は反対意見の持ち主たちの愚かな笑い声を耳にするが、われわれにとっては久しい以前から、この支離滅裂な現実は、思考の無意味な≪混乱≫と正しく比例するところまで引き戻されていた。睡眠が意識を持つ瞬間に、その睡眠から健忘症が現れる。≪健忘症≫は私がつい先刻探していた言葉である。現実、それは単に正午の健忘症にすぎない。>なにやらヴァーチャルと化す人間歴史の予見めいた言葉ではないだろうか。溢れかえる情報過多、情報操作でほとんどおなじような思考回路が作り出され、おなじような思考へと知らぬうちに収斂してゆくことの無自覚社会の到来。まったく、シュールレアリスト画家サルヴァドール・ダリの<現実なるもの>へのするどい眼力といえようか。