yuki-midorinomoriの日記

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デヴィッド・チュードアの特筆の名演奏で聴くマウリシオ・カーゲルの奇矯なパイプオルガン曲

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1948年以来実験的な演奏、パフォーマンスに献身したデヴィッド・チュードアDavid Tudor(1926-1996)。とりわけジョン・ケージとのパフォーマンスでは必ずといっていいほどその名を連ねている。以前車中でNHK・FMの公開音楽番組を聴いていた折、現代音楽をおもに手懸けている、それもほとんどが初演ものらしい、若いグループが出演していた番組で、<譜読み>に関して聞かれ、ファックスで長々と自分の受け持つパートのスコアーが作曲家から送られ、音あわせもそこそこに、やっと初演にこぎつけたというような話のなかで、何せ現代音楽のスコアー自体が察しのように、五線譜での音階であること少なく、個々の作曲家の独自の指示に基づく場合がほとんどであり、だからひょっとして、音となった自作品が作曲家のイメージ通りかどうかも分からず、奏者が間違っているかどうかさえ作曲家は分かっていないこともあるんじゃないかと、冗談交じりに答えていたの聞いた。
たぶんそうであり、そうであってもいいのではとも思って聞き流していた。そのつど違った演奏が成り立ち、聴けるのも好いではないかとおもった。かえって作曲家の方が新鮮な驚き、発見に感激を味わっているかもしれない。なんでも大掛かりなオーケストラ曲になると生涯終えるまで音にならず、スコアーのままで埃をかぶり、名実ともお蔵入りなどざららしい。半世紀振りの演奏などと聞くと涙を誘うぐらいのものだろう。そのでんで行くと音の記録がなされうる今日の、現代の作曲家たちはまだしもなのかも知れない。
さてそんなことは兎も角、このオデッセイレーベルの現代音楽シリーズのデビッド・バーマンプロデュースになる一枚『A SCOND WIND FOR ORGAN』(David Tudor Plays New Pieces For Pipes And Reeds)。先日のブログに採り上げた『ELECTORONIC MUSIC』も彼のプロデュースによるものであったが、たぶんこのアルバムはマウリシオ・カーゲル(1931)を聴きたくて手にしたものだろう。この南米ブエノスアイレスで生まれ57年まで生地で活動、その後ドイツに拠点を移してさまざまな物議をかもすパフォーマンスからめた作品で名を馳せた作曲家である。指揮者が演奏中卒倒するとか、演奏中ホラーもどきのパフォーマンスをするとか、珍妙な創作楽器ばかりで作品をものするとか、兎も角ハッタリめいたことをする、騒々しい話題にこと欠かぬ作曲家らしい。おいおい彼のレコードもこのブログに登場することだろうが、たぶんチンケな出会いが待っていることだろうと私もある意味期待している。
しかしこのアルバムのA面1曲目の彼MAURICIO KAGELの作品『IMPROVISATION AJOUTEE』(1961-62)は面白く聴かせる。チュードアのすばらしいテクニックでパイプオルガンが豪快に即興演奏されるなか、3人(アルビン・ルーシェ、ゴードン・ムンマ、ミヒャエル・サール)のパフォーマーが歌声、咳払い、拍手、叫び、笑い声など奇声をそれに絡み付加しておこなわれたインプロヴィゼーション作品である。これらの絡みが創るパフォーマンスは異様であり、面白くもある。ともかくここでのチュードアのパイプオルガンは特筆ものである。
2曲目クリスチャン。ヴォルフCHRISTIAN WOLFF(1934)の『FOR 1,2 OR 3 PEOPLE』(1964)も面白い作品で ある。こちらはバロックオルガンといくつかの楽器を使っての作品。鍵盤が奏でる通常のオルガン音と噴出す空気音、ペダル音、楽器を打ちつけての音のように聞こえる打楽音。メロディらしきものは皆無なのに、それら付随音が生々しく目に浮かぶようなリアリティで奇妙に緊張感があるから不思議である。
B面はゴードンムンマGORDON MUMMA(1935)の『MESA』(1966)。
チュードアのバンドネオン(アコーデオンの一種)とバーマンの電気変調器(CYBERSONIC CONSOLE)操作による二人のライブパフォーマンスで、おおよそバンドネオンとかけ離れた電子サウンドの作品。マースカニングハム舞踊団の委嘱作品ということで、バンドネオンを演奏するチュードアと、その生身の動きからとてつもなくそぐわぬバンドネオンの電子変調音との異和に面白さがあるのかもしれないが、サウンドだけからはそうした面白さは伝わってこないようだ。タイトルどおりこのアルバムには新しい試みがパイプとリード楽器で為されており、すべてをデヴィッド・チュードアがパフォーマンスしているのが特長のアルバムだといえよう。